越前と若狭の旅 その30 橘曙覧記念文学館にて
今日は福井県の県庁所在地である福井タウンを一日散策、宿泊も福井である。
当初の日程であるが、実際には日程通りには行かなかった。
まずあわら温泉を午前8時に出発して一路福井市の足羽山を目指したが、交通渋滞等に巻き込まれたりして、予定1時間のところを1時間半程かけて、午前9時半頃に足羽山下の公園駐車場に到着した。
福井は古くからの歴史豊かな地で見所も沢山あり、この足羽山でも数ある見学候補地の中から、黄星印を付けた橘曙覧記念文学館と足羽神社と足羽山頂上付近にある継体天皇像の3箇所を見ることにした。
まず橘曙覧記念文学館からである。
文学館へは、この145段ある愛宕坂の階段を上っていく。
愛宕坂は、足羽山に昔あった愛宕大権現社への参道として整備された階段坂で、この坂の途中に橘曙覧記念文学館がある。
ここが橘曙覧記念文学館の入口である。
入口の右側に石碑が建っていて、ここがどういう場所だったか書かれている。
ここは橘曙覧が1839年から9年間(28才から35才までの9年間、35才から3年間という説もある)居を構えた場所で、石垣に山吹の花が咲きほこっていたので「黄金舎」と称していた。
橘曙覧(たちばなのあけみ)は幕末の歌人で、越前国石場町(現福井県福井市つくも町)に生まれた。
生家は、紙、筆、墨などや家伝薬を扱う商家であったが家督を弟の宣に譲り、飛騨高山の田中大秀に入門し、歌を詩作するようになる。
田中大秀は本居宣長の国学の弟子で、彼に宣長の諡号「秋津彦美豆桜根大人之霊位」を書いてもらい床の間に奉って、独学で歌人としての精進を続けた。
妻子もいたが、門弟からの援助や寺子屋の月謝などで養い、生前中は清貧な生活に甘んじた。
橘曙覧の長男が後日編纂した「橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集」(しのぶのやかしゅう)に注目した正岡子規は、1899年の新聞日本紙上に発表した「曙覧の歌」で、源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人と絶賛した。
彼の歌を有名にしたのは「独楽吟」で、どれも「たのしみは」で始まる一連の歌を集めたものである。
1994年に平成天皇と皇后がアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎の挨拶の中で、独楽吟の中の歌の一首「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」を引用してスピーチをしたことで、橘曙覧と独楽吟はなお有名になった。
橘曙覧記念文学館の庭に出ると、橘曙覧・健子像が建っていた。
橘曙覧は21歳の時に妻の直子と結婚したが、長女、次女と生まれてすぐに亡くなり、この三女健子(たけこ)も4歳時に天然痘で亡くしている。
清貧の歌人橘曙覧は、家族といる楽しみをこう歌っている。
たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時
たのしみはまれに魚煮て兒等皆がうましうましといひて食ふ時
たのしみは空暖かにうち晴し春秋の日に出でありく時
たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草すふとき
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來(きた)りて錢くれし時
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