東京散歩Ⅱ その31 吉良邸跡

 吉良邸のあった本所松坂町公園に到着した。
 この公園は忠臣蔵で知られる赤尾義士の討入りがあった吉良上野介義央の上屋敷跡である。
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 吉良邸は昔は松坂町1,2丁目(現両国2,3丁目)のうちの約8400㎡を占める広大な屋敷だったが、今は一般民家が建ち並び、往事のおもかげはどこにもない。
 昭和9年地元町内会の有志が旧邸内の一角を購入し、史跡公園として自治体に寄付した。
 周囲の石壁は江戸時代における高家の格式をあらわすなまこ壁長屋門を模した造りで、当時を偲ばせている。
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 園内に入ると、元吉良邸にあった著名な吉良上野介の首を洗ったとされる井戸や、吉良邸に祀られていた稲荷社などの遺跡があり、小さなスポットに吉良邸の往事がしのべるように展示工夫されている。
 一角には上野介の座像まで置かれていて、この座像や井戸などの展示物のせいかパワースポットとしても有名だとかで、ここには上野介の霊が住み着いているという話まである。
 吉良家は足利将軍家の名門で、戦国期には衰退していたが名家好きの徳川家康によって3200石の旗本に取り入れられた。
 上野介が勤めたのは幕府の儀典をつかさどる高家という職で、見識が高く武家でありながら公家のにおいもする彼は、この職を良く勤め千石を加算され高家筆頭の職にあった。
 旗本でありながら名門の大名との縁談を好み、彼の妻は米沢の上杉家から来ており、子も上杉に入って当主になっている。
 薩摩島津家や津軽家、酒井家などにも輿入れさせていて、異常なほどに権門が好きで傲慢な性格だったらしいが、悪人と言える程ではなかったらしい。
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 そこで、あの松の廊下の刃傷事件である。
 浅野内匠頭本人は切腹し、お家は断絶、一方の上野介は何のおとがめもなかった。
 ただ幕府は5ヶ月後に上野介に隠居届けを出させ、大手門に近い呉服橋御門内から新開地の本所に移転させた。
 赤尾浪士の討入り事件については非常に有名な事件となっているのでここで取上げる気はないが、本所移転などもろもろの諸事情から、この頃には上野介よりも浅野の残党に幕府が肩入れしていた様子で、討たれやすくしていたという推測までされている。
 いろいろあった赤尾浪士の討入り事件を思いながら、次の目的地である回向院に向かって歩いて行った。
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 堅川排水路に沿って歩いて行く途中で、この一之橋に通りかかった。
 この橋は幕府が本所の開発で排水路を縦・横に碁盤目状に開削したが、その隅田川に対して縦に開削された堅川排水路の、隅田川から入って一つ目の橋である。
 一之橋は赤尾浪士が泉岳寺に引き上げる際に、最初に渡った橋として知られている。
 この辺りに立つと、当時の浪士の姿が目に浮かぶようであった。

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