エジプトの死者の書と死後の生活
エジプトの死者の書
古代エジプトの歴史は大きく古王朝の時代(紀元前2750~2213年)、中王朝の時代(紀元前2025~1627年)、新王朝の時代(紀元前1539~1070年)とに分けられる。
古王朝の時代には、死後の世界に於ける安楽な生活を送ることができたのは王や王族に限られていた。安楽な生活を送るためにピラミッドの玄室壁面に経文(ヒエログリフ)を書き残した。これがピラミッド・テキストと言われるものである。
次の中王朝の時代には死後の世界が王族以外の者にも開かれ、柩の底や外側などに経文を書いた。これが「柩文」と呼ばれる。
そのあと、新王朝の時代に入って巻物(パピルス)に経文が描かれるようになった。これがいわゆる『死者の書』といわれるもの。
死後に迎えるであろうさまざまな障害や審判を乗り越えて、無事楽園に到達するためのガイドブックであった。
死後の世界の生活
古代エジプトでは、誰もが死後の生命を信じていた。
死後の世界は、死者の社会的地位によって異なるが、誰もが死後の生活に必要な道具を用意した。これらの道具の大半は家具調度品で、化粧道具、玩具、楽器、武器も墓から出土されている。
また死者に対して食物を供え続けることが必要だった。
墓によっては、穀物や魚、肉、菓子、果物、ブドヴ酒などの料理が、柩の近くに供えられた。この他に、さまざまな種類の供物品目を記した石碑を墓の中に置くことによって、実際の食物にはない呪力が与えられた。
古代エジプト人は死後も生命を保ち、永遠に生き続けるが、そのためには墓に供物が捧げられる必要があった。
そして死者の魂はこれを得るために定期的に墓に戻ってきた。
このように死者が死後も食物を食べられるようになるには、遺体を出来るだけ完全に保存することが必要とされた。
これがいわゆるミイラを作る目的であり、葬儀準備に欠かせないものであった。
ミイラ作りは、初期の時代には自然乾燥にまかせていたが、建築技術が進んでマスタバといわれるレンガ製の陵が作られると、遺体の乾燥が抑えられて腐敗するようになった。
そこでエジプト人は、遺体保存の技術を必要とするようになったのである。
ピラミッドの役割
ピラミッドで最も有名なものは、何といってもギザの大ピラミッドである。ギザの砂漠に斜めに並んでいる3つのピラミッドは、北からクフ王、カフラー王、そしてメンカウラー王のもので、これは第四王朝の時代に建造されたと言われている。
ピラミッドは太陽崇神ラーと関係が深く、王は死後、東の空に昇っていき、太陽神ラーの統治する場所で永遠なる生命を授けられた。
そして彼は太陽神と共に聖なる舟に乗り、空を航行するという日々の旅を続けるのである。
ピラミッドは、古代エジプト語では「メル」といい、「昇る場所」を意味している。
ピラミッドは、王が太陽神に会うために天空に昇っていくための儀式空間と見なされていたのである。
古代エジプトでは、物や人間の模型は、実物と同じ力があると考え、ピラミッドもまた、天空に昇っていくための最新式施設であったのである。
ただし王が天へ昇っていくためには、神官が司る埋葬儀礼が不可欠であった。
その儀礼の中に、ミイラになった王がその体を永遠に使うための、力を吹き込こむ儀礼が行われた。
また、死んだ王を養うために、絶えず供物が捧げられた。ピラミッドにはこうした機能を果たすための幾つかの重要な設備が付属していた。
それぞれのピラミッドに附属する設備は、ピラミッドとナイルの川岸を結ぶように設計されていた。
これによって、葬列や供物を運ぶ人々が、この参道を通って、ピラミッドへと進むことができた。
川岸にある河岸神殿で、王の遺体はミイラにされ、清めの儀式が行なわれたと言われている。
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