天塩川の旅 その5 松浦武四郎の天塩川探検
昼食の後は、士別市立博物館ヘ直行した。
羊と雲の丘から下っていくと、士別公園内の一角に博物館は設置されている。僕は隣接の士別市公会堂から入った。
(士別市公会堂)
公会堂展示館には、女優で極地探険家としても知られている和泉雅子さんの北極探険関係の展示などもあった。
通路を通って隣接の士別市立博物館へ入った。
士別市立博物館は,地域の歴史や自然関係の展示を行っているほか,士別ゆかりの芸術家の作品なども展示されており、小規模ながら総合博物館的な存在となっている。
(博物館1階フロア)
ここの一角に、今回の旅の主役とも言える「松浦武四郎」の展示コーナーがあった。
明治時代以前の天塩川の様子を伝えるものの一つである幕末の探検家・松浦武四郎の「天塩日誌」によると、松浦武四郎は1857年(安政4年)6月に、天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検している。
武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、このときは石狩川と天塩川を探検した。
天塩日誌によると、武四郎は、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口から浜益港を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形で幌延、雄信内、中川、音威子府、美深と歩き、名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、現在の朝日町の源流近くまで到達している。
(武四郎の天塩川探険行程地図)
1587年6月6日に天塩川の河口を出発し、6月23日まで天塩川源流地に留まっていて、7月1日には再び天塩川河口に戻っている。
この時の探険は、武四郎40歳の時の探険で、蝦夷地は5回目となる。
丸木舟2艘に和人1人(武四郎)、アイヌ人4人(アエリテンカ、トセツ、エコレフ、キコサン)が乗り込んで、天塩川を遡上していく。
米、味噌などの食料と縄、ムシロ、ゴザ、鍋などの野営道具を積み、初めての北の大河を進んでいった。
野宿が半分、アイヌ人の家での宿泊が半分、食事は持参したものだけではなく、川で獲った魚や貝も食べている。
(博物館内の武四郎関係の商品や資料)
天塩川探険は旧暦の6月で、今の暦では7月下旬頃のこと、昼間はブユ、ヌカカ、アブ、夜は蚊に悩まされた。
野宿の時は火を焚いたり蚊帳を張ったりして蚊の攻撃を防いだ。
北海道を含めて寒冷地に生息する蚊の怖さは半端ではない。蚊は黒い雲のようになって人間を襲い、人間は全身を刺されてかゆさに飛び上がる。
カヌーイストの野田知佑の北極海に流れ込む大河マッケンジー川での探険物語「北極海へ」を読むと、極北の蚊の凄まじさは想像を絶する程度であるのが解る。
松浦武四郎の丸木舟の旅も、同じようなものだったと推測される。
大便をするのも冗談ではなく命がけとなるので、野田知佑も松浦武四郎も、蚊やブユに刺されないように、川に入って水に浸かりながら用を済ませたと記載している。
武四郎の北海道の探険は、28歳の時が初めての探険、この時は東蝦夷地を調査している。
以下、29歳の時に2回目の探険で西蝦夷地、32歳の時に3回目の探険で千島等の調査、39歳の時に4回目の探険で樺太を調査、武四郎の探険は41歳の時 の6回目の東蝦夷地調査を最後に終了し、江戸に住んだ。
(館内にある武四郎の一畳敷きの書斎の複製)
70歳を前に足腰の衰えを感じていた武四郎は、もう旅をすることは難しいと思ったのだろう、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせて、たった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県まで、いろいろなところから古材が贈られてきた。
この有名な一畳敷の書斎を、武四郎は「草の舎」(くさのや)と呼び、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていた。
羊と雲の丘から下っていくと、士別公園内の一角に博物館は設置されている。僕は隣接の士別市公会堂から入った。
(士別市公会堂)
公会堂展示館には、女優で極地探険家としても知られている和泉雅子さんの北極探険関係の展示などもあった。
通路を通って隣接の士別市立博物館へ入った。
士別市立博物館は,地域の歴史や自然関係の展示を行っているほか,士別ゆかりの芸術家の作品なども展示されており、小規模ながら総合博物館的な存在となっている。
(博物館1階フロア)
ここの一角に、今回の旅の主役とも言える「松浦武四郎」の展示コーナーがあった。
明治時代以前の天塩川の様子を伝えるものの一つである幕末の探検家・松浦武四郎の「天塩日誌」によると、松浦武四郎は1857年(安政4年)6月に、天塩川河口からさかのぼり、源流近くまでを探検している。
武四郎の北海道探検としては第5回目にあたり、このときは石狩川と天塩川を探検した。
天塩日誌によると、武四郎は、4人のアイヌたちとともに、石狩川河口から浜益港を経由して天塩川河口に至り、その後は川筋をたどる形で幌延、雄信内、中川、音威子府、美深と歩き、名寄をベースキャンプにしてさらに本流、支流を探検し、現在の朝日町の源流近くまで到達している。
(武四郎の天塩川探険行程地図)
1587年6月6日に天塩川の河口を出発し、6月23日まで天塩川源流地に留まっていて、7月1日には再び天塩川河口に戻っている。
この時の探険は、武四郎40歳の時の探険で、蝦夷地は5回目となる。
丸木舟2艘に和人1人(武四郎)、アイヌ人4人(アエリテンカ、トセツ、エコレフ、キコサン)が乗り込んで、天塩川を遡上していく。
米、味噌などの食料と縄、ムシロ、ゴザ、鍋などの野営道具を積み、初めての北の大河を進んでいった。
野宿が半分、アイヌ人の家での宿泊が半分、食事は持参したものだけではなく、川で獲った魚や貝も食べている。
(博物館内の武四郎関係の商品や資料)
天塩川探険は旧暦の6月で、今の暦では7月下旬頃のこと、昼間はブユ、ヌカカ、アブ、夜は蚊に悩まされた。
野宿の時は火を焚いたり蚊帳を張ったりして蚊の攻撃を防いだ。
北海道を含めて寒冷地に生息する蚊の怖さは半端ではない。蚊は黒い雲のようになって人間を襲い、人間は全身を刺されてかゆさに飛び上がる。
カヌーイストの野田知佑の北極海に流れ込む大河マッケンジー川での探険物語「北極海へ」を読むと、極北の蚊の凄まじさは想像を絶する程度であるのが解る。
松浦武四郎の丸木舟の旅も、同じようなものだったと推測される。
大便をするのも冗談ではなく命がけとなるので、野田知佑も松浦武四郎も、蚊やブユに刺されないように、川に入って水に浸かりながら用を済ませたと記載している。
武四郎の北海道の探険は、28歳の時が初めての探険、この時は東蝦夷地を調査している。
以下、29歳の時に2回目の探険で西蝦夷地、32歳の時に3回目の探険で千島等の調査、39歳の時に4回目の探険で樺太を調査、武四郎の探険は41歳の時 の6回目の東蝦夷地調査を最後に終了し、江戸に住んだ。
(館内にある武四郎の一畳敷きの書斎の複製)
70歳を前に足腰の衰えを感じていた武四郎は、もう旅をすることは難しいと思ったのだろう、全国の知人に頼んで、各地の古社寺などから古材を贈ってもらい、これを組み合わせて、たった一畳のスペースしかない書斎を自宅に増築した。
島根の出雲大社や広島の厳島神社、吉野にある後醍醐天皇陵の鳥居、京都嵐山にある渡月橋の橋げたなど、北は宮城県から南は宮崎県まで、いろいろなところから古材が贈られてきた。
この有名な一畳敷の書斎を、武四郎は「草の舎」(くさのや)と呼び、今までの旅の人生を思い出す場所とし、夏は一畳の部屋いっぱいに蚊帳を吊って寝起きをしていた。
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