台湾紀行その10 文武廟を行く その2

 文武廟は斜面に建てられており、前から拝殿(前殿)、武聖殿(中殿)、大成殿(後殿)の三段に分かれている。
 前殿には開基元祖文昌帝君が、中殿には關聖帝君岳武穆王が、後殿には孔子がそれぞれ祀られている。

 それでは拝殿(前殿)から見ていこう。
文章帝君は学問の神様だが実在した人だ。(菅原道真を思い出す。)

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 (天井の絵は文章帝君の話を絵にしたもの。)
本名は「張亞子」といい、中国の晉時代「四川七曲山」というところに住んでいた。張亞子は親孝行な人で知識も豊富だったので、地元で学校の先生になり、同時に政府の仕事(学生の試験などの事務を担当)もしていた。
 しかし、悪い人に謀られ、武将に任命され戦場で殺されてしまった。

 このことを知った中国皇帝は張亞子をほめ、神様の地位を授け「文昌帝君」が誕生した。


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 拝殿(前殿)から武聖殿(中殿)を覗いた風景はこんなである。

 武聖殿は「重武」の館である。
武聖殿(中殿)は中国後漢末期に劉備に仕えた関羽が神格化された關聖帝君(関帝)と、中国南宋時代の武将岳飛が神格化された岳武穆王を祀っている。

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 まず関羽だが、劉備に仕えた関羽の人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は、敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。
 悲劇的な死を遂げたが、後世の人間より神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神となった。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

 次に岳飛だが、元々は豪農の出で、幼児の時に父を亡くし母の由氏に育てられたという。
 やがて21歳の時に、北宋代の1122年に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加
した。
 彼は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現したが、岳飛の勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。
その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ岳鄂王と呼ばれた。
 岳飛は後代、救国の英雄として称えられ、現代中国の歴史上の英雄となっている。


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 武聖殿に祀られている、右は関聖帝君(関羽将軍)、左は岳武穆王(岳飛将軍)
    

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