奈良散歩 その1 空海寺
奈良へは上越新幹線と東海道新幹線を乗り継ぎ、京都で奈良行きの快速電車に乗り、奈良駅からバスに乗って今在家(いまざいけ)というバス停で降車した。
このなかなか頭に入らない地名である今在家バス停からほとんど勘を頼りに、緑実線の道を矢印のように歩いて、どうにか三日間宿泊することになる小さなホテル「奈良倶楽部」へ辿り着いた。
宿のオーナーの奥さんと思われる方に、「ホテルまで辿り着くのが難しかった。」と言ったら、「そうですか、ここは、わかりやすいと言われています。」と簡単に言われた。
奥さんは、緑破線の道が通常の道であることを当然僕も知っていると思って、それ以上は言ってくれなかった。
その結果として、もう1回夕刻時の暗くなっているこの難しい道を、不安に駆られながら歩くはめになるのであるが、それはその時に再度記することにする。
ホテルで少しだけ休んで、今日の日程の旅に出発することにした。
時間もまだ午後2時半を少し過ぎた頃なので、今日の日程の東大寺二月堂と正倉院と空海寺は余裕で見れると思っていた。
まず、ホテルの近くにある空海寺を見ることにした。
空海寺まではホテルから歩いて5分程の距離で、山門わきには町石ふうの碑が建っていて、「弘法大師巡錫霊地」と刻んである。
空海寺については、司馬さんの「街道をゆく 奈良散歩」にかなり詳しく書かれているが、簡単に紹介すると、空海寺は東大寺の僧が死んだときに葬儀を受け持つ寺である。
仏教渡来以前、日本人は死者と死霊を恐れ、死や血を穢れ(けがれ)とみた。
東大寺が建立された奈良時代では仏教は生者のみのもので、東大寺では今なお創建時代の精神が息づいていて、葬儀というものはやらない。
東大寺の僧が死ぬと町方の寺の住職を呼んで葬儀をさせる、その専門の寺が空海寺なのである。
司馬さんは、空海寺を聖のいたところと推測している。
聖は官僧ではなく僧形のもののことで、中世の室町期には民間における巨大な宗教勢力となり、そういう人々が高野山への納骨を勧めて歩いたり、共同墓地などに定住して葬儀を受け持ち、やがて彼らが寺を持ち本山をもっていく過程の中で、葬儀は寺と僧がやるものだということになっていったのである。
墓石群の頂上から、空海寺の下に広がる奈良の街を眺めた。
奈良の街を眺めながら、そういえばこの寺には上司海雲の墓があることを思い出した。
せっかくここまで来たからには、彼の墓だけは拝んで行こうと心に決めた。
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