奈良散歩 その37 唐招提寺戒壇
これから金堂を離れて戒壇まで歩いて行く。
唐招提寺戒壇は、唐招提寺境内の西の端と言える位置にあり、蓮などが美しい自然豊かな環境の一角に広々とした空間を持つ仏教施設である。
戒壇とは仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指している。
戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。
会津八一の「おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ」の心境のように、遣唐使のことや鑑真のことについて思いをめぐらせながら戒壇まで歩いて行く。
以下、井上靖「天平の甍」のあらすじから抜粋する。
第九遣唐使派遣が決まったのは聖武天皇の時代の732年のことだった。
この第九遣唐使に留学僧として普照、栄叡(ようえい)が選ばれた。
まだ日本には戒律が備わっておらず、適当な伝戒の師を請じて日本に戒律を施行したい、ついてはその伝戒の師を連れてくるようにというのが二人に課せられた仕事であった。
栄叡は戒師として、名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていた。
その旨を鑑真にお願いしに行くと、あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではないか。
栄叡は感激し、普照も手伝って鑑真を日本へ連れて行くための準備に入った・・・・・。
しかし、鑑真の日本への渡海は実に苦難に満ちた旅で、日本にたどり着くまで5回も渡海を失敗した。
ある時は同行の僧の密告や弟子の妨害によりって未然に終わり、ある時は海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、ある時は遠く海南島に流される労苦を味わい、日本にたどり着くまでなんと12年の歳月を要した。
その間、鑑真は栄叡や弟子の祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明する不幸に見舞われ、海路、陸上の旅で世を去った者は36人、望みを放棄して彼のもとを去った者は200余人に及んだ。
しかし鑑真の意思は固く、753年6回目にして、ようやく鑑真は日本の地を踏むことができた。
754年1月23日大宰府に到着した鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、755年2月4日に平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。
4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。
これが日本の登壇授戒のはじまりで、併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後戒律制度が急速に整備されていった。
759年、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し戒壇を設置した。
その唐招提寺戒壇にようやく到着、中には入れないので門の外から内部を見た。
しかし、かつて確実に存在した戒壇院の建物は、江戸時代末期にあたる1848年に放火による火災に伴い焼失した後は再建されることなく、現在はわずかに3段の石壇部分のみが残される状況となっている。
昭和期に設置された宝塔が特徴的な巨大な3段の石壇部分の造る風景は、どこか日本というよりはアジア諸国のような異国情緒を漂わせている。
唐招提寺の創建者である鑑真は、戒律の他彫刻や薬草の造詣にも深く、日本にこれらの知識も伝えた。
また悲田院を作り、貧民救済にも積極的に取り組んだのである。
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