越前と若狭の旅 その3 三国湊散策は高見順の生家から

古来より三国湊は九頭竜川やその支流の足羽川などを使った水運による物流の拠点として発達し、戦国時代の武将朝倉義景が居城を構えた一乗谷朝倉氏遺跡内の庭園跡には、船によって運ばれてきた東尋坊周辺の岩が庭石として残っている。

また、朝倉氏の後福井を治めた柴田勝家も水運を重視し、足羽川近くに居城北の庄城を構え、荷揚げ用の港を設けていた。

江戸中期になると、狭い範囲で行っていた水運・海運が、それらの港をつなぐ海上航路へと発達し北前船交易が始まり、三国湊においても、海運で上方(関西)・瀬戸内・山陰・東北・北海道から物品が集まり、物流の一大集積地として賑わった。

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  三国湊は北前船を所有する廻船問屋をはじめ、様々な物品を販売する商店らが軒を並べ、町は大きく発展したが、明治に入って鉄道が開通し物流の中心が船から鉄道へ移りだすと、次第にその輝きを失っていった。

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三国湊には北前船が残していった歴史・文化はもちろんのこと、歴史的建造物が多数あるが、とても全部を見れなかったので、1時間半程の間に歩いたこの街のほんの一部を、これから紹介する。

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まず、黄星印の三国駅前からスタートし、黄線に沿って、い;高見順の生家、ろ;地蔵堂、は;三好達治が愛した元料亭たかだや、に;見返り橋、ほ;思案橋、へ;三国湊口留番所跡、と;湊銭取立所跡、ち;旧岸名家、り;旧森田銀行の順に散策し旧跡・史跡等を見学した。

昼食は、三国駅の中にある「ありがたや」という食堂で日替わりランチを食べた。

それでは、いの高見順の生家から見学である。

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 1907年にこの家で、昭和を代表する作家高見順は、当時の県知事坂本釤之助の私生児として生まれた。

母の高間古代は彼が二歳の時に逃げるように町を離れ、彼は母に連れられて東京へ移った。

その後東京大学を卒業し作家活動に入り、順調に人気作家として活躍していたが、1965年に食道ガンのため58歳で没した。




彼は晩年、「荒磯」という故郷三国の海を扱った詩を書いて、それは故郷で文学碑となっているが、こんな内容の詩である。


おれは荒磯の生まれなのだ。

俺が生まれた冬の朝

黒い日本海ははげしく荒れていたのだ

怒涛に雪が横なぐりに吹きつけていたのだ


彼のその後の人生を暗示するような、激しく荒々しい詩である。

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