韓の国の旅 その31 周ガイドが語る大統領汚職と光州事件

 バスの中では例によって周ガイドの一人舞台となった。周ガイドはここで、イ・ミョンバク大統領の汚職光州事件について話した。
 イ・ミョンバク政権はもうガタガタで、イ大統領の近親、側近、政府高官が続々と汚職で逮捕され、次男は既に刑務所入り。
イ・ミョンバクは政権の長くないことを知っていて、長男名義で莫大な財産の隠蔽を企てているなどなど、スゴイ話をしていた。日本に来てからネットで調べてみると、韓国の大統領は命懸けの仕事だということを知らされた。

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 現大統領の朴槿惠(パク・クネ、1952年2月2日〜)の父親朴正煕(パク・チョンヒ、在1963-79)氏は在任中に暗殺された。(朴槿惠の母親も暗殺)

 全斗煥(チョン・ドゥファン、在1980-88)氏は退任後に死刑判決(後に特赦)。

 その次の盧泰愚(ノ・テウ、在1988-93)氏は退任後に懲役刑(後に特赦)

 金泳三(キム・ヨンサム、在1993-98)氏の後に就任した金大中(キム・デジュン、在1998-2003)氏は逮捕こそされなかったが、対北送金疑惑があった。

 南北首脳会談を実現してノーベル平和賞を受賞した金大中氏だが、北朝鮮を訪問する際に巨額の金を持って行き、金正日(キム・ジョンイル)総書記に献金したというものだ。
 その後、それに関わったとされる財界人が自殺している。

 前の前の大統領の盧武鉉(ノ・ムヒョン)氏は親族や側近が相次いで逮捕され、自身は収賄罪容疑で事情聴取された後に自殺している。


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 暗殺と自殺が続くこんな史実を見ると、韓国の現代史はどうなってるんだと思ってしまう。
 日本の歴史認識をどうのこうのと言う以前の話のような気もする。

 周ガイドの話は大統領の汚職から光州事件へ移っていく。
 
光州事件は、1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地であった光州市で発生、民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件。
 光州事件前から見ていく。
1979年2月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した。


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その後、朴正煕暗殺事件(パク・チョンヒあんさつじけん)が、1979年10月26日に大韓民国のソウル特別市で起きた。

 朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードがしばらく続いていた。
 しかし、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴正煕に引き立てられた中堅幹部
勢力「ハナフェ(ハナ会・一心会)」との対立が表面化した。 
 ハナフェは、全斗煥が朴正熙の黙認のもと、陸士卒業生のうち主として嶺南出身の優秀な将校を糾合して結成した軍内私組織である。

「嶺南」とは慶尚北道と慶尚南道を合わせた地域で、大邱市や釜山市をも含む。

 この「嶺南」組は、朴正煕以後、全斗煥、盧泰愚(ノ・テウ)と大統領職を独占した。

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 結局、文民政権と呼ばれた金泳三(キム・ヨンサム)政権になってから、朴正煕政権以来32年間続いていた軍事政権は消滅、軍内の派閥「ハナフェ」も潰れた。

 また光州事件に戻る。
全斗煥の軍事クーデター後も全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていた。
 そこで全斗煥が率いる新軍部は、1980年5月17日全国に戒厳令を布告し、執権の見込みのある野党指導者の金泳三・金大中や、旧軍部を代弁する金鍾泌を逮捕・軟禁した。
 金大中は全羅南道の出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が光州事件発生の大きな原因となっている。
 また、鎮圧部隊の空挺部隊も、かつては韓国軍のエリート部隊であったが、全斗煥の警護部隊的な位置づけに格下げされ、兵士たちには鬱憤がたまっていた。
 5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊とこれに抗議した学生が自然発生的に衝突した。


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 軍部隊・機動隊の鎮圧活動は次第にエスカレートし、また翌19日にはデモの主体も学生から激昂した市民に変わっていった。
 市民はバスやタクシーを倒してバリケードを築き、角材や鉄パイプ、火炎瓶などで応戦した。
 21日に群集に対する空挺部隊の一斉射撃が始まると、市民は郷土予備軍の武器庫を奪取して武装し、これに対抗した。
 戒厳軍は一時市外に後退して、光州市を封鎖(道路・通信を遮断)、包囲した。

 光州市はこの時期無政府状態であったが、市民による自治が機能して治安と秩序は維持していた。

 その後、一部闘争派を残して大部分の市民は自主武装解除を行い、闘争派の市民の多くは射殺され、鎮圧作戦は終了。
 人口75万の光州市に投入された総兵力数は2万に至った。
光州事件はこのような事件である。


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この光州事件に、我が周ガイドは当時高校生の身で市民の戦いの中に加わったという。
 光州事件では武器をもって直接戦うことは彼女はしなかったが、炊き出しの役に加わり、市民の籠城を手伝ったという。
 韓国の現代史に残る事件に関わったという経験があるためか、国の政治に直接関与していこうという姿勢が、周ガイドの態度のいたるところに強く感じられた。
 周ガイドは冗談とも本音ともつかない態度で、「皆さんもし光州事件についてもっと聞きたければ、今夜どこかで飲みながらどうですか?」と僕等ツアー客に話していた。
 彼女の青春時代がきっと光州事件の話題で蘇ったのだろう。

 そう言えば明日はもう日本に帰る日、いろいろなお話を聞かせて貰い、ツアーのいろんな場面でお世話になった周ガイド、仕事を離れた最も人間的な一面が露出した久里までのバスの中だった。

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