近江街道をゆく その14  「楽浪の志賀」路へドライブ開始

113()4日目の朝となった。
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3日間寝泊まりしたこの部屋と、名残惜しいが今朝でお別れである。

化物たちが宴会でもしているような感じがしたのは最初の一日だけで、他の日は恨んでいるような感じの妖怪が常時取り付いているようだったが、極端な悪さはしなかった。
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ホテルの食堂で、見た目が良くて味もなかなかの朝食を済ませ、午前8時20分頃にはビジネスホテル西大津を出た。

今日はレンタカーを使用して、湖西から湖北までの琵琶湖畔をほぼ半周する。
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今日の日程は継体天皇の先祖の血を訪ねることと、この「近江街道の旅」の最も重要な目的である、朝鮮半島を南下して大量に滴り落ち最も有力な日本人の血液となった渡来人の痕跡にたどり着くことである。

僕が泊まっていた西大津は滋賀郡に属しているが、古来滋賀郡は「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれ古墳の宝庫となっており、しかもその全てが朝鮮式だという。

上代このあたりを開拓して一大勢力をなしていたのが、朝鮮半島からの渡来人であり、彼らはこの地に朝鮮半島から先進文化や先進技術を持って来た。
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そんなことを考えながら、大津京駅から見える「楽浪の志賀」の風景に見入った。

大津京駅から10分程電車に乗り、四駅先の堅田駅に降車した。
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この堅田駅から東に200m程歩いて、トヨタレンタリース堅田店に到着、そこで純白のトヨタビッツをレンタルして「楽浪の志賀」の地をのんびり走っていく。

走りながら最澄のことを考えている。

最澄は、後漢の考献帝の子孫を祖先とする弥生時代の渡来人の7代目にあたると伝承されていて、三津首百枝の子として比叡山麓の古市郷(大津市坂本本町)に生誕した。

渡来系の氏族には先祖を古い家系や有力氏族に繋げる家系の創作が多く見られるが、最澄の家系が考献帝の子孫かどうかの事実関係は誰にもわからない。

最澄の家系は中国系ではなく新羅系ではないかという説もある。

しかし彼が、朝鮮半島を南下して大量に滴り落ち最も有力な日本人の血液となった渡来人の末裔であることだけは、そのことだけは事実のようである。

比叡山を旅しながら、旅の最も重要な目的を達成していることに、この時初めて気がついた。
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西近江路を40分程走って、最初の目的地である北小松に到着、北小松駅にレンタカーを留めた。

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