近江街道をゆく その15 北小松と白鬚神社を歩く

司馬遼太郎が「街道をゆく」で訪れた数多くの町、集落、土地の中で、最初の訪問地の地となったのが滋賀県大津市小松(当時は滋賀県滋賀郡志賀町小松)で、実際に訪れたところが北小松漁港である。

司馬の街道をゆくには、北小松の小松が高麗津だったかもしれないと、ここにも朝鮮半島の痕跡の地名を想像している。

僕の旅では北小松港には立ち寄らなかったが、朝鮮半島の痕跡を辿るような気持ちで北小松の町を歩いてみた。
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11月の北小松の町で目にとまったのが、たわわに実った柿の木と道路横の立派な石垣だった。

石垣や石積みの上手さは湖西の特徴で、付近には川はなくすべて暗渠になっていて、この石組みの上手さが朝鮮半島の血がここに流れてきた痕跡となっているという。

司馬がこの町を散策した頃は家々の軒は低く、紅殻格子が古び、厠の扉まで紅殻が塗られていたというが、そんな家を探して見たがこの時は見つからなかった。

そこで、道で出会ったこの辺りに住む少年に案内してもらって琵琶湖に出て、この辺りからの琵琶湖風景をながめた。
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湖面にはエリ漁(定置網漁業)の仕掛けがされていて、小鮎、ワカサギ、イサザ等が漁れる。

仕掛けの向こうに集落が見えるがどうやらそこが北小松港で、戦前には40艘程の漁船が活躍していたというが、司馬がここを訪れた頃には5艘になっていたという。

北小松の次に、ここからほど近い距離にある白鬚神社に行った。

白鬚神社は滋賀県高島市鵜川にある神社で、全国にある白鬚神社の総本社とされ、沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべていることから、「近江の厳島」とも称されている。
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白鬚神社は、垂仁天皇(11)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが社の創建であると社殿では伝えられている。

司馬は、白鬚神社は新羅神社ではないかと、これも朝鮮半島の血の痕跡の一つだと考える。

楽浪の滋賀は渡来人が多く住んでいた地で、近江と同じく白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や筑前にもやはり渡来人が多く住んでいて、その人たちの建てた神社が祖先の地を示す名である新羅神社であり、やがて白鬚神社となったものと思われる。
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神社の境内を一通り散策して、琵琶湖畔に悠然と浮かんでいる鳥居を見ることにした。
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これからトラックなどがひっきりなしに通る神社の前の西近江路を、この勇敢な家族の後に続いて横断を試みるのである。

桓武天皇の時代、近畿地方には日本の人口の3割に当たる渡来人が住んでいたと言われ、この楽浪の滋賀の地も同じような状態だったと思われる。
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 渡来人はきっと勇気を出して海を渡れば、この鳥居のように美しい日本の地?に渡れると心を決めて冒険の海に出たのだろう。
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そして、渡来人のように勇敢な家族は海の中の鳥居を目標に西近江路に飛び出し、僕もすぐ後に続き、渡来人のように勇敢に西近江路に飛び出した。

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