茶の本 全文紹介 第2章 茶の庶流 NO2
四、五世紀のころには、揚子江流域住民の愛好飲料となった。
このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。
これは明らかに、古い「た」の字(木余)の俗字であろう。
南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫」を熱烈に柴拝した跡が見えている。
また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。
しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原姶的なものであった。
このころに至って始めて、現代用いている「茶」という表意文字が造られたのである。
これは明らかに、古い「た」の字(木余)の俗字であろう。
南朝の詩人は「液体硬玉の泡沫」を熱烈に柴拝した跡が見えている。
また帝王は、高官の者の勲功に対して上製の茶を贈与したものである。
しかし、この時期における茶の飲み方はきわめて原姶的なものであった。
茶の葉を蒸して臼に入れてつき、団子として、米、薑(はじかみ)、塩、橘皮、香料、牛乳等、時には葱とともに煮るのであった。
この習慣は現今チベット人および蒙古種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。
ロシア人がレモンの切れを用いるのは-彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが-この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
この習慣は現今チベット人および蒙古種族の間に行なわれていて、彼らはこれらの混合物で一種の妙なシロップを造るのである。
ロシア人がレモンの切れを用いるのは-彼らはシナの隊商宿から茶を飲むことを覚えたのであるが-この古代の茶の飲み方が残っていることを示している。
茶をその粗野な状態から脱して理想の域に達せしめるには、実に唐朝の時代精神を要した。八世紀の中葉に出た陸羽をもって茶道の鼻祖とする。
詩人陸羽は、茶の湯に万有を支配しているものと同一の調和と秩序を認めた。
彼はその有名な著作茶経(茶の聖典)において、茶道を組織立てたのである。
爾来彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。
彼はその有名な著作茶経(茶の聖典)において、茶道を組織立てたのである。
爾来彼は、シナの茶をひさぐ者の保護神としてあがめられている。
茶経は三巻十章よりなる。
彼は第一章において茶の源を論じ、第二章、製茶の器具を論じ、第三章、製茶法を論じている。
彼の説によれば、茶の葉の質の最良なものは必ず次のようなものである。
胡人のかわぐつのごとくなる者蹙縮然たり
ほう「牛」の上に「封」]牛の臆なる者廉せん然たり
浮雲の山をいずる者輪菌然たり
軽飆の水を払う者涵澹然たり
また新治の地なる者暴雨流潦の経る所に遇うがごとし
ほう「牛」の上に「封」]牛の臆なる者廉せん然たり
浮雲の山をいずる者輪菌然たり
軽飆の水を払う者涵澹然たり
また新治の地なる者暴雨流潦の経る所に遇うがごとし
第四章はもっぱら茶器の二十四種を列挙してこれについての記述であって、風炉に始まり、これらのすべての道具を入れる都籃(ちゃだんす)に終わっている。
ここにもわれわれは陸羽の道教象徴主義に対する偏好を認める。
これに連関して、シナの製陶術に及ぼした茶の影響を観察してみることもまた興味あることである。
シナ磁器は、周知のごとく、その源は硬玉のえも言われぬ色合いを表わそうとの試みに起こり、その結果唐代には、南部の青磁と北部の白磁を生じた。
ここにもわれわれは陸羽の道教象徴主義に対する偏好を認める。
これに連関して、シナの製陶術に及ぼした茶の影響を観察してみることもまた興味あることである。
シナ磁器は、周知のごとく、その源は硬玉のえも言われぬ色合いを表わそうとの試みに起こり、その結果唐代には、南部の青磁と北部の白磁を生じた。
陸羽は青色を茶碗に理想的な色と考えた。
青色は茶の緑色を増すが白色は茶を淡紅色にしてまずそうにするから。
それは彼が団茶を用いたからであった。
その後宋の茶人らが粉茶を用いるに至って、彼らは濃藍色および黒褐色の重い茶碗を好んだ。
明人は淹茶を用い、軽い白磁を喜んだ。
青色は茶の緑色を増すが白色は茶を淡紅色にしてまずそうにするから。
それは彼が団茶を用いたからであった。
その後宋の茶人らが粉茶を用いるに至って、彼らは濃藍色および黒褐色の重い茶碗を好んだ。
明人は淹茶を用い、軽い白磁を喜んだ。
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