探険家の歴史 第2部 ミシシッピ川の旅 その1  ニューオーリンズ

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 ニューオーリンズ、1718年フランス人の植民によってミシシッピ川下流に創設され、1722年にはフランス領ルイジアナの首府となった。


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バーボンストリート ↑ デキシーランドジャズが一日中鳴り響いている町



 その後スペイン領となり、皇帝ナポレオンの手によって財政上の理由で、1803年アメリカ合衆国に売却された。


 この町はミシシッピ川を河口のメキシコ湾から100マイルほどさかのぼった位置にあり、気候は日本の沖縄程度に暑い。その上湿度が高い。


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 ニューオーリンズはルイジアナ州のこんなとこにあります。 ↑


 ミシシッピの広大な湿地帯の上に町があるため、1インチ以上も雨が降れば、水害が発生する。


 水害を避けるため、墓地のほとんどが地下に土葬するのではなく、地上に埋葬室を設け、その中に葬っている。


 2000年の統計によると、484,674人が住んでおり、188,251の世帯、112,950の家族が住んでいる。人口密度は、1,036.4人/km2である。


 人口の28.05%が白人、67.25%がアフリカ系アメリカ人、0.20%がアメリカ先住民、2.26%がアジア系、0.02%がハワイやグアムなどの太平洋の島々からの移民、0.93%がそのほかの民族や人種、1.28%が2つ以上の民族や人種を親に持ち、3.06%がヒスパニック系である。


 全米50州の中で平均年収は45位くらい、人口の27.9%、23.7%の家庭が貧困状態にある。18歳未満の40.3%、65歳以上の19.3%が貧困状態にある。


 こんな貧しい都市だが、この街には不思議な魅力がある。



 19世紀末にこの街に滞在した、小泉八雲も、その著作「クレオール物語」の中で、この街の印象をこう語っている。(クレオールは本国を知らないでこの街で生まれ育った白人や黒人の2世たちのこと。)


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 「初めての旅人が安心して私たちの町を訪ね、北米随一の美しい古都の甘美な第一印象を純一な歓びをもって味わいうる季節がいよいよ到来した。この季節こそニューオーリーンズの魅力はもっとも高まるからである。あまり気候風土に恵まれない土地からやって来た旅人たちを、ニューオーリーンズは、夜毎の妖しい月光と日々の夢のような倦怠と芳香とをもって魅了し去るのである。初めてこの町へやって来て悦びを感じない人は少ない。この町を去る時に後髪の引かれる思いを感じない人は少ない。ひとたびその不思議な魅力のとりこになった人で、これを忘却しうるものは一人もいないはずである。」


 100年以上経過した今も、ニューオーリンズの魅力は変わらない。


 長い間この街に住んでいる、街の指導者の一人、ヘレン・マービス夫人はこの街の魅力をこう語っている。


 「すみづらいようでいて住みやすいということがたくさんあるわ。ニューオーリンズに住むためには、あいまいさみたいなものを持っていなきゃならないのよ。汚職をも含めて、良きにつけ悪しきにつけ、いろんなことをすごくゆるしてるのよ。いろんなことに寛容なのよ。だから、一種の快楽主義的な環境が出来上がっているのね。」


 万事白黒つけなければ気がすまないと思われるアメリカ社会の中で、寛容とかあいまいさとか、日本人好みの精神風土が息づいている土地が存在していることはまったく知らなかった。


 ニューオーリンズは、またマルディグラというカーニバルでも有名な街。


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 マルディグラ(MardiGras)とは、フランス語で、太った火曜日(FatTuesday)を意味し、宗教的には、イースター前の断食に入る前に、いっぱい食べようということから始まったお祭りらしいが、いつのまにかそこにアフリカ系移民(奴隷として連れてこられた人)や、インディアンの儀式などの要素が入りこんで、今では、パレード、音楽、食べ物を中心としたドンチャン騒ぎのお祭りになっているようだ。



 ジュリー・スミスというアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞を受賞した作家の「ニューオーリンズの埋葬」の冒頭に、この祭りの紹介部が載っている。


 「ニューオーリンズでは、カーニバルはまさに一つの季節にほかならない。それは30日間から60日間つづいて、参加者の体力を消耗し尽くし、参加者は莫大な量の酒を飲み尽くす。・・・」


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 彼はこの、豊ぎょうを祈る異教徒の儀式に見られるような常軌を逸したお祭りのルーツをギルシャやアテネ時代にまで溯って解き明かす。


 混沌としてあいまいで寛容で、そんなニューオーリンズを代表するカラーはやはり黒である。黒はここで、3分の2の人口を誇っている。


 そして、黒を代表するヒーローがこの街に生まれている。


 20世紀で最も有名なミュージシャンであり、ジャズの父となったルイ・アームストロング(Louis Armstrong 1901~1971)である。


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 ルイ・アームストロングは、1901年8月4日、 ニューオーリンズの貧民街で生まれた。


 彼が育った街は政府公認の売春の街で、ストーリー・ヴィルと呼ばれていた。


 もともと、ニューオーリンズには女性が少なく、フランス植民地時代にはフランス政府はパリの売春婦たちを一網打尽にして、まとめてこの地に送り込んだという。


 パリの街の清掃と植民地の人口増加の一石二鳥を狙った政策とかで、住民の末裔には売春婦の血が色濃く流れていると想像される。


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   この女の人もひょっとすると、売春婦の血が・・・・・ ↑


 母親は売春婦として外に出ていたため、ルイは元奴隷だった祖母に預けられて育った。


 11歳のときには路上で芸をしてお金を貰うようになったり、ユダヤ人の家族に雇われてルイは古着集めの仕事を始めた。


 1913年 ある日ピストルを盗み出して路上で発砲、少年院に送られた。そこで彼は指導員からコルネット(トランペットの親戚のようなもの)の手ほどきを受けた。


 施設を出所した後、彼はミュージシャンとしての活動を始めるが、その才能はすぐに花開き、ニュー・オーリンズの街でも注目を浴びる存在になって行った。


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 ジャズという音楽は酒場や売春宿のBGMとしてこの世に生まれてきた。だが、第1次世界大戦により、ニューオーリンズが軍港として使用されるようになったため、ジャズの拠点だったストーリー・ヴィルの娼婦街は閉鎖されてしまった。


 当然そのまわりで営業していた数多くのクラブやバーも次々に閉店に追い込まれることになり、ミュージシャンたちもまた多くの黒人達とともに北部へと移住して行くことになった。


 こうして、シカゴからニューヨークへその活動の舞台を変えるたびに、ルイは偉大なジャズアーティストへの道を歩んでいく。それとともに、悲しい黒人としての宿命にも、何度も突き当たっていく。


 彼の晩年、アメリカは、国内では公民権運動による人種間の対立が激化し、国外ではベトナム戦争の泥沼にどっぷりつかってしまっていた。


 名曲「この素晴らしい世界」(1967年)は、当時のそんな時代にかれの深い人生感が乗り移り、大ヒットとなった。



 「それでも世界は充分に素晴らしいじゃないか!よく見てご覧」



 地獄のようなアメリカの当時の現実の前で、彼はこう歌っていた。


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  一人の偉大なヒーローは、充分にすばらしい世界に抱かれながら、1971年、天国へと旅立って行った。

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