奈良散歩 その63 聖徳太子

 法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国と河内国とを結ぶ交通の要衝であった。
 付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる。
 日本書紀によれば、聖徳太子(用明天皇の皇子の厩戸皇子)は601年、飛鳥からこの地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手し、605年に斑鳩宮に移り住んだという。
 法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地で、この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺である。
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 法隆寺を建立した聖徳太子は曽我氏と関係の深い人物である。
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 上の系図を見ても、蘇我氏の稲目や馬子の姉妹が天皇家と婚姻を繰り返して次期の天皇を輩出する図式が見てとれ、実は聖徳太子も血縁を見れば蘇我氏の一員なのである。
 聖徳太子が推古天皇から国政の統括を任せられたと伝わる年齢は20歳頃である。
 太子は推古天皇のもとで、血縁者でもあり政界の大ボスとしても君臨していた経験豊富な蘇我馬子の協力で、海千山千の豪族たちを従わせながら政治を行っていった。
 具体的には遣隋使を派遣するなどして最先端の中国文化や制度を学び、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど、大王(天皇)や王族中心の中央集権国家体制の確立を図ったのである。
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 法隆寺伽藍配置図を見ながら、引き続き聖徳太子のことを考えている。
 聖徳太子は後世の人々から見れば日本を代表する偉人で、「厩の前で生まれた」とか「母の間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」とかの太子出生伝説が伝わっている。
 事実がどうなのかは不明であるが、一般的には574年の甲午(きのえうま)の干支の年に、飛鳥の橘寺、またはその付近の厩の前で生まれたとされている。
 また、こんなエピソードも伝わっている。
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 ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があり、我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したと伝わっている。
 この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになったという。
 この故事のもととなる資料の内、「上宮聖徳法王帝説」、「聖徳太子伝暦」では請願者の数は8人であり、厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。
 「日本書紀」と「日本現報善悪霊異記」では10人、また「聖徳太子伝暦」では11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。
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 今度は西院伽藍を注視して見ていく。
 伽藍は法隆寺式という配置で、東に金堂、西に塔を南面して並立する。
 中門からの回廊は、この金堂と塔を取り囲むが、講堂は回廊の外に配置するという伽藍配置である。 それでは実際にこれから西院伽藍の中に入っていく。

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