甲州街道と佐久平みち その4 積翠寺から甲斐善光寺へ

 武田神社から、次に積翠寺に向かった。



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 積翠寺までは距離にした約3km、時間にして5分ほどの距離であるが、積翠寺が標高約530mの位置に立地するため、実際には10分以上車に乗っていた。



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 真っすぐ目の前の石州瓦のような色合いの屋根の建物が積翠寺である。



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 この寺の開祖は行基とされていて、「甲斐国志」に拠れば古くは石水寺と呼ばれていたという。

戦国時代には寺の裏の要害山に、武田武田信虎が躑躅ヶ崎館の詰城として要害山城を築城、信虎嫡男の信玄は1521年11月3日に要害山城において誕生したとされている。





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 右手の石碑には、武田信玄誕生の寺と記されている。



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 寺の境内には、信玄の誕生の際に産湯を汲んだとされる井戸がある。

この寺は、それ以外は特に印象に残るような寺ではなく、山の中の小さなさびれた寺の印象だった。





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 この寺に居た頃から雨が降り出し、雨で煙ってはいたが高台の地にある寺から見た甲府の街はなかなか素敵な風景として印象に残った。


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 このあと、7km程の距離にある甲斐善光寺に向かった。



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 甲斐善光寺は1558年に甲斐の武田信玄によって山梨郡板垣郷(甲府市善光寺)に創建されたが、武田信玄と上杉謙信の信濃の地をめぐる戦いの結果でこうなったようである。

謙信は第三次川中島の戦いの終結後、信濃善光寺の大御堂本尊の善光寺如来や寺宝を越後へ持ち帰って直江津に如来堂を建設したが、この如来は偽物だったらしい。





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 謙信に対抗して信玄は信濃善光寺北西の水内郡葛山城(長野市)を落とし一帯を勢力下に置くと、善光寺別当の栗田寛久に命じて信濃善光寺本尊の阿弥陀如来像や寺宝を甲斐国甲府へ持ち帰り、栗田氏らも甲府へ転居した。

甲斐善光寺の歴史は、武田と上杉の攻防の歴史のようである。


境内を歩いているうちに雨脚が極端に強くなったので、宿泊ホテルへ午後4時前に入った。

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