越前と若狭の旅 その24 平泉寺南谷発掘地を歩く

中世の平泉寺は宗教都市とよべる性格を備えていて、境内の中心部分は東西方向の細長い尾根上にあって社殿や堂塔が建ち並び、これを挟んだ南北両側の谷には多数の坊院(僧の住居)が密集して建っていた。

延暦寺が三千坊といわれた時代に六千坊とうたわれ、白山麓の巨大宗教都市となっていたのである。

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これから三千六百の坊院が建っていたとされる、黄四角枠で囲まれた南谷発掘地にいく。

1989年からの本格的な発掘調査により、中世では全国最大の石畳道や多数の僧坊群など一大宗教都市としての遺構が確認されているが、いまだ発掘はその1%ほどだという。



この草原や森林の下に、巨大宗教都市が400年以上も眠っていたのである。

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しかし、このあたりはまだ発掘現場ではないらしい。

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発掘現場に入ると風景は途端にこうなって、人為的な痕跡が随所に広がっている。

平泉寺は今から約1300年前、平泉寺から初めて白山に登って修行をおこなった泰澄というお坊さんによって開かれた。



平泉寺は平安末期の1084年に、当時日本で最も大きな力を持っていた比叡山延暦寺の末寺になり、実質上は僧兵集団となって越前で力をのばしていった。

源平合戦の時は源氏についたり平家についたり、戦況を左右する存在だった。

平泉寺の歴史をたどりながら、発掘地を歩いていく。

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ここは南谷発掘地に復元された門・土塀である。

鎌倉時代は平泉寺がどんどん領地の支配を広げていった時代で、鎌倉幕府を開いた源頼朝からは福井平野の東にある藤島荘をもらった。

このほかにも、越前国中の荘園に初穂米としてその年とれた初めての米をお供えするよう要求し、事実上の税金を取ろうとした。

更に、荘園から取った米に高い利子を付けて貸し、それを繰り返す金融活動をして富を蓄えていった。

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ここは坊院跡とそれを囲む石垣である。

鎌倉から室町にかけて大変大きな富を誇った平泉寺は、領地を九万石・九万貫も持ち、平泉寺の中には48の神社の36のお堂、坊院が6000建っていたといわれている。

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ここは坊院の間を通る中世の石畳道である。

応仁の乱が始まり戦国時代になると、越前でも朝倉氏と斯波氏・甲斐氏が対立し、この戦いを勝ち抜いた朝倉氏は、1481に越前を統一し平泉寺は朝倉氏の支配下に入った。

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ここは南大門跡である。

その後80年ほどは小さな戦争はあり、織田信長が出てきて時代は大きく変わって、1573年に朝倉義景は織田信長に負けて一乗谷から逃げ、平泉寺はいつもの常套手段のように義景を裏切り、義景は味方がいなくなり大野で自殺し滅びてしまう。

そして平泉寺も翌年の1574年に、越前国にいた一向一揆に攻め込まれて全て焼かれて滅びてしまうのである。

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考古学者に憧れていた頃を思い出しながら、400年以上も眠っていた壮大な中世の夢の跡を歩いてみた。

もう少し時間が経てば、一乗谷のように立派に復元された街が造られることだろう。

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