石川啄木と函館 その5 「友の恋歌矢ぐるまの花」の青柳町を散策Ⅱ
「啄木と函館」に添付してあった地図を頼りに、青柳町を更に散策した。
アの位置の苜蓿舎同人吉野白村宅跡、イの位置の松岡蕗堂居宅跡、ウの位置の石川啄木居住地跡、エの位置の亀井勝一郎の文学碑跡の4箇所である。
この広く見える通りは桜通り、左手にはすりばち坂、すりばち坂の向こうの黄四角で囲ったアの位置に、苜蓿舎同人吉野白村宅があった。
吉野白村の本名は章三で、宮城県に生まれて1897年に教員となり、1904年8月北海道中川郡利別小学校、1906年2月函館区立東川小学校、1907年釧路に移り天寧小学校校長。
函館時代は啄木の就職探しに尽力し、啄木を弥生小学校代用教員とさせた。
啄木は白村を、「かなしめば高く笑ひき 酒をもて 悶を解すという年上の友」と歌っている。
吉野白村の本名は章三で、宮城県に生まれて1897年に教員となり、1904年8月北海道中川郡利別小学校、1906年2月函館区立東川小学校、1907年釧路に移り天寧小学校校長。
函館時代は啄木の就職探しに尽力し、啄木を弥生小学校代用教員とさせた。
啄木は白村を、「かなしめば高く笑ひき 酒をもて 悶を解すという年上の友」と歌っている。
次は松岡蕗堂居宅跡、桜通りから入って青柳坂を下る写真左手に松岡蕗堂居宅があった。
手前が青柳坂、その向こうの黄四角イの位置あたりに借家があり、松岡蕗堂はその2階の八畳間(ここに苜蓿社が置かれていた。)を借りて住んでいて、啄木は蕗堂の部屋で2ヶ月余り(函館生活の過半数)を過ごした。
その八畳間には毎晩のように若い同人たちが集まっては、詩歌を論じ文学を論じ世間を批判し、またよく恋愛を語り折にふれて歌会を持った。
その八畳間には毎晩のように若い同人たちが集まっては、詩歌を論じ文学を論じ世間を批判し、またよく恋愛を語り折にふれて歌会を持った。
また桜通りを、右手方向にある松の木のあたりまで歩いて行く。
その反対側あたりにウの位置の石川啄木居住地跡があった。
その反対側あたりにウの位置の石川啄木居住地跡があった。
旧居からは函館山が見えていて、当時はこの辺りはかなりの絶景だったことが伺われた。
明治40年7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え新家庭作りにかかるが、不幸にも8月25日夜に大火が発生し、勤めていた弥生小学校などが焼けてしまった。
職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4ヶ月余りで終了した。
明治40年7月7日、啄木は盛岡から妻子を呼び寄せて、この付近の路地奥にあった借家に落ち着き、8月には母と妹を迎え新家庭作りにかかるが、不幸にも8月25日夜に大火が発生し、勤めていた弥生小学校などが焼けてしまった。
職場を失った啄木は、9月13日新たな職を求めて札幌へと旅立ち、函館での生活は4ヶ月余りで終了した。
青柳町には当時の面影はほとんど残っていなかったが、ここを歩いていて、青春と呼べる時代しか生きられなかった啄木の、本物の青春の叫びが聞こえたような気がした。
「石川啄木と函館」は今回で終了します。
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