耽羅紀行(済州島の旅) その10 展示館と三姓殿を見学
赤字Aの三姓穴を終えると、マイナスイオンが充満している庭園内を通り、赤字Bの展示館へ向かった。
三姓穴全体の印象だが、マイナスイオンが充満しているうっそうとした庭園と、柑橘類がタワワになっている賑やかで華やかな庭園が組み合わさっていた。
展示館には展示スペースと映像スペースがあり、僕らは映像スペースの方へ入った。
そこで、済州の創始者である三神人の湧出穴からの誕生と耽羅国への発展、更に高麗末期に至るあらゆる神話的・歴史的な過程を盛り込んだアニメーションを、おおむね15分程視聴した。
それから最後に、赤字Cの三聖門と三聖殿の見学へ向かった。
そこで、済州の創始者である三神人の湧出穴からの誕生と耽羅国への発展、更に高麗末期に至るあらゆる神話的・歴史的な過程を盛り込んだアニメーションを、おおむね15分程視聴した。
それから最後に、赤字Cの三聖門と三聖殿の見学へ向かった。
三聖門は焼香所で、李氏朝鮮時代の1698年に建立された後、1970年に改造された。 そしてその奥に鎮座する三聖殿である。
三聖門から見るだけで、三聖殿の近くへは残念ながら行けなかった。
写真の上部に三聖殿の全体像を貼り付けたが、このように三神(耽羅国を創始した高乙那、良乙那、夫那良の3神)がまつられている。
その右側に、新羅に入朝(外国の使臣が朝廷を訪問すること)した三高氏(星主、王子、徒内)がまつられている。
済州島の歴史の一端が、ここから見えてくる。
三国時代の耽羅は、百済、高句麗、新羅の各国と交易を行い、新羅・唐連合軍によって百済が滅亡した直後には日本と中国・唐とも外交関係を結ぶなど、独自的な海上王国の歴史を引き継いだ。
三高氏の活躍した時代はその頃のことであろう。
高麗王朝時代になって「耽羅」は高麗に服属し、名前も「海の向こうの大きな郡」という意味の「済州」に変わった。
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