「播磨と淡路のみち」 その3 竹田城散策の始まり

竹田城収受棟前でガイドの今村さんが待っていてくれた。

ここで竹田城観覧料の500円を支払って、今村ガイドにもここで2000円のガイド料を支払った。

これから竹田城址に向かって歩いていくが、今村ガイドは城址までの道を簡単に竹田城址の説明をしながら登って行く。

僕もビデオカメラを回しながら、今村ガイドの説明をビデオに収録していく。
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竹田城は1431年に山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主に任じられたと伝えられている。

この二十数年後に京都で応仁の乱が起こった。

御所の西側に陣を構えた山名宗全と、御所の東側に陣を構えた細川勝元との間の戦いである。

それから500年以上経過した今でも山名宗全の陣は西陣という名で残っている。
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こんな話をしながら、この直角に曲がる虎口と言われる場所を、前に二人に続いて左に曲がった。

何故虎口かというと、ここは見通しが悪くなるので敵を三方向から攻めることが出来る最強の地点で、敵からすれば虎の口に入ったような場所だからである。
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虎口を登って右に曲がると、北千畳と呼ばれる広場が広がり、その端まで進むと眼下に絶景が広がる。
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下の平地の部分で海抜100m、竹田城址の天守部で海抜353.7mとなる。
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城のある古城山は周囲のどの山とも繋がってなく、完全な独立峰である。

今は草木で覆われている竹田城跡であるが、当時山は全部丸裸状態に刈ってしまって、攻めあがってくる敵は丸見えとなった。

山名氏から毛利氏の手に引き継がれて、130年程この城は戦国時代を戦い抜いたが、羽柴軍が大坂を攻略、次いで姫路を攻略して、ついに竹田城は落城した。
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こんな山深い城が秀吉の攻撃目標になったかの理由だが、竹田城は生野銀山を管轄しており、生野銀山の確保が目標だったようである。

こうして1577年に、この城は秀吉側の城となった。

この城の最後の城主である斎村政広は関ヶ原の戦いで西軍に属し敗戦となり、竹田城はその後江戸幕府の方針により廃城となった。
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しかし、廃城になったことにより、良い事もあったと寺村ガイドは明快に説明する。

江戸時代に城主の居た城は石垣が江戸時代の積み方で積み直しされたが、竹田城の石垣は戦国時代の「のずら積み」のまま冷凍保存され、今に至ったのである。




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