近江街道をゆく その43 鬼室神社と鬼室集斯の墓を拝観

鬼室神社は古くは不動堂と言い、明治以降は小野村の西宮神社として崇敬されてきた社で、小野の宮座(地域の鎮守もしくは氏神である神社の祭祀に携わる村落内の特権的な組織及びそれを構成する資格者の集団)により護持されてきた。
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鬼室神社では今でも毎年118日に、村の人々によって神社の祭礼が行われており、近年は韓国から訪れる人も多くなったという。

蒲生野小野のあたりは、先住日本人との間の混血で薄まってはいるが、想像するまでも無く朝鮮の血が色濃く残っている土地柄である。

神社の祭礼によって、遠い共通の祖先の血が呼び覚まされることも多々あるのだろう。

そんな事を考えながら境内に入った。
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境内は、鳥居と石灯籠と拝殿がまっすぐに配置されていて、日本と朝鮮の長い交流の歴史を思い浮かべながら、時間の波に洗われ古色を帯びた鳥居をくぐった
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鳥居をくぐってすぐ右手に、日野町と扶余郡恩山面()との姉妹都市記念として、この看板の裏に、韓国国花の木槿(むくげ)が植えられていた。

そのまことに存在価値の高い、参道正面にある拝殿の前に立った。
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小銭を賽銭箱に入れてから、拝殿の前で手を合わせて、旅の無事を願った。

はるばる百済から日本まで旅した鬼室集斯を祀る神社は、他を圧して御利益がありそうである。
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 拝殿の右手後方には、鬼室神社のことを簡単に説明した看板が、日本語とハングル語で書かれていた。
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そして、説明看板の左手の拝殿の後ろに、目指す鬼室集斯の墓があった。

司馬遼太郎の「街道をゆく 韓のくに紀行」の最終章に、鬼室神社と鬼室集斯の墓を訪れた記載がある。
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それによると、江戸時代中期に江戸の儒者がここを訪れ、神殿を形どった石祠は儒礼による墳墓であると断定したらしい。
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また石祠の中の墓碑は八角形の形をしており、こけし人形のように首がくびれている。

やはり江戸時代にここを訪れた儒医が、風化した石に水をそそいで苔をはらい、苦労して刻文をさぐり、正面に鬼室集斯墓、左に朱鳥3(688)戊子118日歿、右に庶孫美成造、と彫られていることを読み下したという。

白村江の戦いが663年だから、その敗戦の残党狩りを逃れて日本まで来た鬼室集斯の時代から、もう既に1350年以上経つ。

鬼室集斯の魂は、彼が亡くなりこの神社に祀られてからも、生まれ故郷を離れた異国の地で、1000年以上も丁重に鎮魂されてきたのである。

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