越前と若狭の旅 その27 丸岡城を見学

これから赤字Bの丸岡城に向かう。

この城は戦国時代の1576年に一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の柴田勝豊に築かせた城で、国内に現存する12の天守閣の中で、最古の建築様式を有する平山城である。

丸岡城には午後1時30分頃に着いた。

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丸岡城はその昔戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し敵の攻撃を免れたという伝説により一名「霞ヶ城」とも言われ、そのように縦長の石看板に刻まれていた。

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この三層の天守閣は、柴田勝豊が今までいた4km程東にある豊原寺から持って来た。

豊原寺は白山豊原寺と号して平泉寺と並ぶ白山信仰の巨刹であった。

平泉寺と同様に源平合戦時、南北朝時代、朝倉氏時代と規模を大きくしながら生き延び、戦国期には多数の僧兵を擁して、豊原三千坊と呼ばれるまでに勢力を伸ばした地であった。

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天守閣下の野面積みの石垣の手前に、一筆啓上の石碑がある。

一筆啓上とは、徳川家康の忠臣本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた短い手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のことである。

お仙とは後の越前丸岡城主の本多成重のことで、成重の幼名は仙千代であった。

手紙の内容は味も素っ気も無いが無駄を省いて要件だけを明瞭に伝えており、文章の手本とされている。

重次は頑固で他人に厳しい人物と見られていたが、この手紙は唯一の息子である仙千代を心配し、妻子を気遣う優しさが見え隠れしている。

竹人形の里で、手紙を手にし読んでいる重次の妻の気持ちが、ここでようやく理解出来た。

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これから野面積みの石垣の上を歩き、天守閣に入っていく。

天守閣は一階の底面積が42坪、二階と三階が12坪と、非常に小ぢんまりとした造りで、大入母屋の上に廻り縁のある小さな望楼を載せた古式の外観から現存最古の天守と呼ばれている。

寒冷地であるという気候事情により、屋根瓦には地元福井の笏谷石の石瓦が葺かれている。

天守に入る前に地元の丸岡高等学校放送部が制作した5分程のビデオを見たので、天守に入ってからは説明もいらないですんなり見学できた。

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ここが一階であるが、笏谷石の屋根の重さが120トンもあるため、更に降り積もる雪の重さに耐えるため、太い柱が26本も使われている。

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ここは二階だが造りはいたってシンプルで、階段も急なため、観光客用にロープまで貼られている。

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天守の三階からの風景は雄大で、街の向こうに見える遥かな山並みに、見たこともない古の豊原寺のイメージが重なった。

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