越前と若狭の旅 その31 足羽神社と継体天皇像
橘曙覧記念文学館の次は足羽神社である。
足羽神社は、福井県福井市足羽に鎮座する神社で、継体天皇と大宮地之霊が祀られている。
男大迹王(継体天皇)が越前国にいる時に越前平野の大治水事業をされたが、その時に越前平野が一望できる足羽山に宮を建て、朝廷に祀られている大宮地之霊(坐摩神)を勧請して事業の安全を祈願したのが足羽神社の起源とされている。
大宮地之霊は別称坐摩神(いかすりのかみ)と言い、以下の五柱神の総称である。
生井神(いくいのかみ)、福井神(さくいのかみ)、綱長井神(つながいのかみ)の三神は井戸と水の神で、阿須波神(あすはのかみ)は足場と工事安全と交通安全と旅行守の神で、波比岐神(はひきのかみ)は境界や門の神で屋敷や人の出入りを守護し方位除けや厄除けも司る。
ここで特に交通安全と旅行の無事を祈願し、次の足羽山頂上付近にある継体天皇像に向かった。
この階段を上がると継体天皇像がある。
継体天皇は存在が確実に確認できる最初の天皇で、継体から日本書紀等に記述されている年代も実際の年代になっていると考えられている。
また、現在の皇室と確実な血縁関係が認められる最初の天皇でもある。
継体天皇像がようやく見えて来た。
ここで少し脱線するが、存在が確実視されている天皇は第15代応神天皇が最初で、4世紀末期頃の人物だと考えられている。
その根拠としては、第16代仁徳天皇の陵墓である大仙山古墳の建造年代と倭の五王の讃に比定されているからである。
存在した可能性が濃厚な最初の天皇は第10代崇神天皇で、3世紀末から4世紀中頃の人物と考えられていて、彼の墓とされる前方後円墳が「山の辺の道」にある。
また彼は邪馬台国の卑弥呼の弟であるという説もあり、この説を取ると3世紀中頃の人となる。
いずれにしても神話の時代の話の延長で、実際には継体天皇以前の事は現状では何一つ確実なことが分からないのが本当のところである。
そしてようやく継体天皇に到着である。
存在が確実に確認できる最初の天皇である第26代継体天皇は、近江の国(現在の滋賀県高島市)で彦主人王(ひこうしおう)と振媛(ふりひめ)の間の子として生まれ、早くして父親を亡くし母の故郷である越の国へ母と共に移り住んだ。
そこで王にふさわしい教育を受けながら、越前漆器の奨励や福井平野の治水、笏谷石採掘に貢献するなど数々の伝説を残した。
50年余りを越の国で過ごした後、57歳で都に上り第26代目の天皇として即位した。
継体の母である振媛(ふりひめ)はとてもきれいな人だったといわれていて、日本書紀によると「顔容殊妙(かおきらぎらしくて)、甚(はなはだ)うるわしき色ある」(顔きらきらして大変美しい)と記載されている。
美人の母をもつ継体天皇だが、この像を見る限り男前だったとは言えない。
しかし、継体天皇は大和から東国にかけての豪族の娘を9人もお妃とし、最初の妃である目子媛(めのこひめ)の2人の子供は、後に27代と28代の天皇となった。
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