奈良散歩 その66 法隆寺大宝蔵院
大宝蔵院全体は西と東の2つの宝蔵、そして北側の部分にある百済観音堂で構成されていて、この大宝蔵院の展示は下図のようなロの字型となっている。
ここを入り口から西の宝蔵に入って行き、百済観音堂を見てから東の宝蔵に入り、出口までの間に展示されている仏像等を見て回った。
展示物等を幾つか紹介する。
まず⓵の位置に、白鳳時代の国宝の夢違観音がある。
展示物等を幾つか紹介する。
まず⓵の位置に、白鳳時代の国宝の夢違観音がある。

この像に祈ると悪夢が吉夢に変わるとの伝説から、夢違観音と呼ばれて親しまれている。 溌剌とした少年のような像で、もとは東院の絵殿にお祀りされていた。
少し進んで②の位置に、地蔵菩薩像がある。
少し進んで②の位置に、地蔵菩薩像がある。

この像は明治初年の神仏分離令で大神神社の神宮寺であった大御輪寺から移されたと伝えられ、頭から台座まで一木で造られている。
次に、③の位置に玉虫厨子がある。
次に、③の位置に玉虫厨子がある。

この玉虫厨子は法隆寺が所蔵する飛鳥時代の仏教工芸品で、装飾に玉虫の羽を使用していることからこの名がついていて、国宝に指定されている。
須弥座部は、正面に「舎利供養図」、向かって左側面に「施身聞偈図」、右側面に「捨身飼虎図」、背面に「須弥山世界図」が描かれている。
西の宝蔵を見終え、百済観音堂に入った。 ④の位置に、百済観があった。
須弥座部は、正面に「舎利供養図」、向かって左側面に「施身聞偈図」、右側面に「捨身飼虎図」、背面に「須弥山世界図」が描かれている。
西の宝蔵を見終え、百済観音堂に入った。 ④の位置に、百済観があった。

百済観音は飛鳥時代(7世紀前半 - 中期)作の国宝仏像(木造観音菩薩像)である。
像高は210.9cm(209.4cmとする資料もある)あり、名称と伝承から外国伝来と考えられていたが、使用材は像身はクスノキ、水瓶と蓮華座だけがヒノキで、日本国内産であることから、日本で制作されたものと見られている。
大正時代以降に和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」などの書物で紹介され、すっかり有名になった。
像高は210.9cm(209.4cmとする資料もある)あり、名称と伝承から外国伝来と考えられていたが、使用材は像身はクスノキ、水瓶と蓮華座だけがヒノキで、日本国内産であることから、日本で制作されたものと見られている。
大正時代以降に和辻哲郎の「古寺巡礼」や亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」などの書物で紹介され、すっかり有名になった。

和辻哲郎は古寺巡礼の中で、「形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示される何か抽象的なものを目ざしている」と言い、「初めて人体に底知れぬ美しさを見だした驚きの心の所産である」と述べている。
また、百済観音の様式について、ガンダーラ仏あるいはインド仏よりも漢代の石刻画を思わせるものであり、この様式こそシナにおける創作と言い得るものであるが、シナにおいてそれはいくつかの様式のうちの一つであったが、日本ではこの様式がほとんど決定的な力を持つにいたるまでに、百済観音の様式の背後にある体験に日本人は共鳴したとしている。
また、百済観音の様式について、ガンダーラ仏あるいはインド仏よりも漢代の石刻画を思わせるものであり、この様式こそシナにおける創作と言い得るものであるが、シナにおいてそれはいくつかの様式のうちの一つであったが、日本ではこの様式がほとんど決定的な力を持つにいたるまでに、百済観音の様式の背後にある体験に日本人は共鳴したとしている。
亀井勝一郎は「大和古寺風物誌」においてこの像を「大地から燃えあがった永遠の焔」のような像だと絶賛した。
身長2mを越える細身の美男である本物の百済観音の存在の大きさに、ただただ圧倒されたことを、今でも鮮明な記憶として覚えている。
いろいろな意味で、本物にまさるものはない。
身長2mを越える細身の美男である本物の百済観音の存在の大きさに、ただただ圧倒されたことを、今でも鮮明な記憶として覚えている。
いろいろな意味で、本物にまさるものはない。
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