奈良散歩 その73 法輪寺
法隆寺のある斑鳩の里エリアでは、法隆寺と中宮寺と藤ノ木古墳と法輪寺と法起寺を見る予定としていた。
今回の旅である「奈良散歩」はこの斑鳩の里エリアで終わることになる。
残る寺は、赤☆印の位置の法輪寺と青☆印の位置の法起寺で、まず法輪寺から巡る。
今回の旅である「奈良散歩」はこの斑鳩の里エリアで終わることになる。
残る寺は、赤☆印の位置の法輪寺と青☆印の位置の法起寺で、まず法輪寺から巡る。
藤ノ木古墳から法輪寺までは3㎞程、午後1時頃には寺に到着した。
法輪寺は、三井寺(みいでら)とも呼ばれ、法林寺、法琳寺とも表記されていて、宗派は聖徳宗、本尊は薬師如来坐像である。
三井寺という別名は、当寺のある三井の地名に由来し、付近に聖徳太子ゆかりと言われている3つの井戸があった所から来ているが、3つの井戸のうちの1つが現存していて国の史跡に指定されている。
創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から7世紀中頃には存在していたことは間違いなく、本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。
創建事情の詳細は不明であるが、発掘調査の結果等から7世紀中頃には存在していたことは間違いなく、本尊薬師如来像と虚空蔵菩薩像も飛鳥時代末期にさかのぼる古像である。
現存する三重塔は1975年(昭和50年)の再建であるため、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には含まれていない。
この三重塔は1944年に雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたものである。
この三重塔は1944年に雷火で焼失後、作家の幸田文らの尽力で寄金を集め、1975年に西岡常一棟梁により再建されたものである。
焼失した塔は、近隣の法隆寺、法起寺の塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、7世紀末頃の建立と推定される貴重な建造物であった。
創建については古くから2つの説があるが、1つは聖徳太子伝私記に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため622年に建てたとする説で、もう一つの説は上宮聖徳太子伝補闕記および聖徳太子伝暦に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。
法輪寺は発掘調査により、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことがわかっている。
創建については古くから2つの説があるが、1つは聖徳太子伝私記に見えるもので、聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため622年に建てたとする説で、もう一つの説は上宮聖徳太子伝補闕記および聖徳太子伝暦に見えるもので、創建法隆寺の焼失後、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもつひのにいもの)の3人が建てたとするものである。
法輪寺は発掘調査により、創建当時は東に金堂、西に塔が建つ、法隆寺式の伽藍配置で、平面規模は法隆寺の3分の2であったことがわかっている。
ここが金堂で、堂内に安置されていた本尊薬師如来坐像、虚空蔵菩薩立像などは講堂(収蔵庫)に移されているという。
この像が、ネットから借用した本尊薬師如来坐像である。
完存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一最大のものといわれ、法隆寺の釈迦如来像や飛鳥寺の飛鳥大仏などで知られる仏師鞍作止利が造ったとされている。
20分ほど法輪寺を見て、最後の寺で今回の旅の最後となる法起寺に向かった。
完存する飛鳥時代の木彫如来像としては唯一最大のものといわれ、法隆寺の釈迦如来像や飛鳥寺の飛鳥大仏などで知られる仏師鞍作止利が造ったとされている。
20分ほど法輪寺を見て、最後の寺で今回の旅の最後となる法起寺に向かった。
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