最上川と「おくのほそ道」の旅 その7 尾花沢で芭蕉・清風歴史資料館を見学

午前中は尾花沢から大石田そして山寺へと進んでいくが、この3箇所は芭蕉がおくのほそ道で歩いた道でもある。
山刀伐峠を越え、元禄2年(1689)5月17(新暦7月3日)、尾花沢にたどり着いた芭蕉は旧友鈴木清風を訪ねた。

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季節は紅花の開花期となっており、紅花問屋を営む島田屋鈴木家は多忙を極めていた。
僕も芭蕉の歩いた道を辿って鈴木清風宅にようやく辿りついた。
これから、今は芭蕉・清風歴史資料館となっている清風の家の中に入って行く。

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芭蕉の「おくのほそ道」には、尾花沢のことはこう記されている。
尾花沢にて清風と云者(いふもの)を尋ぬ。かれは富る者なれども、志(こころざし)いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

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清風は紅花を扱う豪商で、芭蕉とは江戸で俳諧を通じて交流があり、彼を取り巻く地元の俳人からも歓待を受け、芭蕉は尾花沢に10泊滞在して長旅の疲れを癒した。
紅花の摘み取りや養蚕の仕事で清風の家は大忙しで、芭蕉は清風宅で3泊し、残りの7日は清風の計らいで養泉寺に身を置いた。
ところで清風の家業の対象となった紅花だが、この花から紅餅を作る。

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当時紅染めの原料になる紅餅はコメの倍もの値段で取引され、貴族や大名など特権階級の衣装や口紅として珍重された。
紅餅300個で、口紅がたった1グラム取れ、紅の値は純金に近かったという。
紅花はアザミに似た菊科の花で、古名を末摘花(すえつみばな)、紅藍(べにあい)、久礼奈為(くれない)とも呼ばれ、原産地のエジプト・地中海沿岸からシルクロードを経て、飛鳥時代に渡来した。

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特に江戸時代において、土も肥え水はけもよい最上川流域は紅花の一大産地で生産高も全国一となっていて、それが大石田の川港に集められ最上川河口の酒田へ、さらに北前船で京都へ運ばれた。
この資料館は気のせいか、紅花の香気が漂っているようだった。

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