「播磨と淡路のみち」 その19 赤穂の大石神社へ

昼食は、龍野市室津出張所の隣にあるみなと茶屋で済ませた。
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この町には飲食スペースがないので、ここでは軽食しか食べることができない。

港を臨むところにテーブルと椅子が並んでいて、カレーやうどんやおにぎりができるので、カレーうどんとおにぎりを頼んでちょうど550円だった。

食事後、赤穂に向かった。
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23km程の道のりだが、慣れないこともあって1時間ほどかかってしまった。

赤穂では、まず赤穂城跡に立ち寄った。
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国史跡となっていて、なかなか立派な造りの城のようである。
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 ここは武家屋敷公園である。

 この辺りはちらっとだけ見て、すぐに大石神社に向かった。
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この正面が大石神社の参道のようである。
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参道の両脇に赤穂浪士47人の石像が建っていて、今にも吉良邸に討ち入りそうな気配である。

1703130日の深夜、この元赤穂藩士大石良雄以下47人は、旧主浅野長矩の仇である吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した。
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殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。

しかし、吉良義央には何の咎めもなかったので、その後赤穂浪士の討ち入りとなった。
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大石神社本殿に到着し、複雑な気持ちで頭を垂れて、赤穂浪士の霊に黙とうした。

複雑な気持ちとなったのは、赤穂事件を裁いた徳川綱吉の評価に関することで、

綱吉がお茶の間のドラマに登場するのは、忠臣蔵関連か水戸黄門関連のドラマで、このどちらも綱吉を悪人として描いている。

それ程悪い人間ではなく、むしろ非常に有能な君主だったという評価がある。

具体的には井沢元彦氏で、「逆説の日本史」の中で、「戦国の気風を残した世相を、生命を大事にする太平の世へと変革した」と、綱吉の「生類憐みの令」を高く評価している。

綱吉の治世の前半は、基本的には善政で特に問題は無いが、治世の後半は天変地異が多発し、それが綱吉の評価を極端に下げ、その中で赤穂事件は起こった。

複雑な気持ちを吹っ切れないまま、大石神社を終える。

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