最上川と「おくのほそ道」の旅 その15 兼続生涯最大の作品、米沢の町とは
それでは、最上川最上流の町米沢市の中心部に向かってスタートである。
最上川は米沢市内に入ると、羽黒川、松川、堀立川の支流に分かれるが、松川が最上川の本流となる。
まず、赤矢印の松岬公園(旧米沢城本丸)に向かう。
松岬公園(旧米沢城本丸)を中心とした現在の米沢市の姿であるが、実はこの米沢の町は400年前に造られた上杉氏の城下町と基本的には変わっていない。
上杉景勝が越後にいた時代、上杉の石高は100万石程度だったと言われているが、それは上杉の実質支配地域ということで、越後1国の石高は40万石程だったという。
豊臣秀吉の意向(実質は石田光成の意向)で、上杉景勝は会津に120万石でお国替えされ、そのうち直江兼続は米沢の30万石を所領とした。
将来の関ヶ原の世界を予想しての、石田光成の布石だったと思われる。
詳しく見ると、会津92万石(米沢30万石も含む)に加え、佐渡14万石、出羽庄内14万石を加算された合計120万石で、上杉家は会津へ転封する事となった。
石田光成の意向どおり、上杉氏は関ヶ原の戦いで西軍について敗戦軍となり、1601年に徳川家康の命により120万石から30万石に減封され、直江兼続の所領であった米沢に転封された。
減封前は人口6037人戸数は803戸の小さな米沢の町が、120万石5000人の家臣団を一人も減らすことなくやってきた上杉氏により、3万人も人口増加したという。
そして、直江兼続による米沢の城下町造りが始まるのである。
米沢は山あり川ありの、四神【東に青龍(河川)の松川、北に玄武(山岳)の白鷹山、西に白虎(大道)の越後街道、南に朱雀(水たまり)の南部一帯の水田】に守られた風光明媚な里で、人が生活するのに理想的な地である。
直江兼続は第2の故郷米沢を愛し、家臣団の生活を軌道に乗せるべく、その叡智を町づくりに注ぎ込んだ。
その事業期間は10年にも及び、規模の大きさと共に直江兼続の生涯最大の作品とも言える米沢の町、現在もその区画や通りはほぼ当時のままである。
町造りはあくまでも敵軍侵攻に備えての軍事防衛が基本で、家臣団を敵軍の侵攻を念頭に置きながら城下町に配置し、精神性・宗教・方位を加味し、居住場所と食料生産のための治水・水利事業を進め、上杉家の力と繁栄を印象づけるための町人町の充実も忘れなかった。
どうやら、午前8時21分、米沢城内堀(松岬公園)に到着である。
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