岡倉天心 茶の本 第六章  花 その5 花の死

 花道の生まれたのは十五世紀で、茶の湯の起こったのと同時らしく思われる。
 わが国の伝説によると、始めて花を生けたのは昔の仏教徒であると言う。
 彼らは生物に対する限りなき心やりのあまり、暴風に散らされた花を集めて、それを水おけに入れたということである。
 足利義政時代の大画家であり、鑑定家である相阿弥は、初期における花道の大家の一人であったといわれている。
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 茶人珠光はその門人であった。
 また絵画における狩野家のように、花道の記録に有名な池の坊の家元専能もこの人の門人であった。
 十六世紀の後半において、利休によって茶道が完成せられるとともに、生花も充分なる発達を遂げた。
 利休およびその流れをくんだ有名な織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らは新たな配合を作ろうとして互いに相競った。
 しかし茶人たちの花の尊崇は、ただ彼らの審美的儀式の一部をなしたに過ぎないのであって、それだけが独立して、別の儀式をなしてはいなかったという事を忘れてはならぬ。
 生花は茶室にある他の美術品と同様に、装飾の全配合に従属的なものであった。
 ゆえに石州は「雪が庭に積んでいる時は白い梅花を用いてはならぬ。」と規定した。
 「けばけばしい」花は無情にも茶室から遠ざけられた。
 茶人の生けた生花はその本来の目的の場所から取り去ればその趣旨を失うものである。
 と言うのは、その線やつり合いは特にその周囲のものとの配合を考えてくふうしてあるのであるから。

 花を花だけのために崇拝する事は、十七世紀の中葉、花の宗匠が出るようになって起こったのである。
 そうなると茶室には関係なく、ただ花瓶が課する法則のほかには全く法則がなくなった。
 新しい考案、新しい方法ができるようになって、これらから生まれ出た原則や流派がたくさんあった。
 十九世紀のある文人の言うところによれば、百以上の異なった生花の流派をあげる事ができる。
 広く言えばこれら諸流は、形式派と写実派の二大流派に分かれる。
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 池の坊を家元とする形式派は、狩野派に相当する古典的理想主義をねらっていた。
 初期のこの派の宗匠の生花の記録があるが、それは山雪や常信の花の絵をほとんどそのままにうつし出したものである。
 一方写実派はその名の示すごとく、自然をそのモデルと思って、ただ美的調和を表現する助けとなるような形の修正を加えただけである。
 ゆえにこの派の作には浮世絵や四条派の絵をなしている気分と同じ気分が認められる。

 時の余裕があれば、この時代の幾多の花の宗匠の定めた生花の法則になお詳細に立ち入って、徳川時代の装飾を支配していた根本原理を明らかにすること(そうすれば明らかになると思われるが)は興味あることであろう。
 彼らは導く原理(天)、従う原理(地)、和の原理(人)のことを述べている、そしてこれらの原理をかたどらない生花は没趣味な死んだ花であると考えられた。
 また花を、正式、半正式、略式の三つの異なった姿に生ける必要を詳述している。
 第一は舞踏場へ出るものものしい服装をした花の姿を現わし、第二はゆったりとした趣のある午後服の姿を現わし、第三は閨房にある美しい平常着の姿を現わすともいわれよう。

 われらは花の宗匠の生花よりも茶人の生花に対してひそかに同情を持つ。
 茶人の花は、適当に生けると芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているからわれわれの心に訴えるのである。
 この流派を、写実派および形式派と対称区別して、自然派と呼びたい。
 茶人たちは、花を選択することでかれらのなすべきことは終わったと考えて、その他のことは花みずからの身の上話にまかせた。
 晩冬のころ茶室に入れば、野桜の小枝につぼみの椿の取りあわせてあるのを見る。
 それは去らんとする冬のなごりときたらんとする春の予告を配合したものである。
 またいらいらするような暑い夏の日に、昼のお茶に行って見れば、床の間の薄暗い涼しい所にかかっている花瓶には、一輪の百合を見るであろう。
 露のしたたる姿は、人生の愚かさを笑っているように思われる。
 花の独奏ソロはおもしろいものであるが、絵画、彫刻の協奏曲コンチェルトとなれば、その取りあわせには人を恍惚とさせるものがある。
 石州はかつて湖沼の草木を思わせるように水盤に水草を生けて、上の壁には相阿弥の描いた鴨の空を飛ぶ絵をかけた。
 紹巴という茶人は、海辺の野花と漁家の形をした青銅の香炉に配するに、海岸のさびしい美しさを歌った和歌をもってした。
 その客人の一人は、その全配合の中に晩秋の微風を感じたとしるしている。

 花物語は尽きないが、もう一つだけ語ることにしよう。
 十六世紀には、朝顔はまだわれわれに珍しかった。
 利休は庭全体にそれを植えさせて、丹精こめて培養した。
 利休の朝顔の名が太閤のお耳に達すると太閤はそれを見たいと仰せいだされた。
 そこで利休はわが家の朝の茶の湯へお招きをした。
 その日になって太閤は庭じゅうを歩いてごらんになったが、どこを見ても朝顔のあとかたも見えなかった。
 地面は平らかにして美しい小石や砂がまいてあった。
 その暴君はむっとした様子で茶室へはいった。
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 しかしそこにはみごとなものが待っていて彼のきげんは全くなおって来た。
 床の間には宋細工の珍しい青銅の器に、全庭園の女王である一輪の朝顔があった。
 こういう例を見ると、「花御供」の意味が充分にわかる。
 たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。
 彼らは人間のような卑怯者ではない。
 花によっては死を誇りとするものもある。
 たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。
 吉野や嵐山のかおる雪崩の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。
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 宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。

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