最上川と「おくのほそ道」の旅 その12 斎藤茂吉、子規の遠縁の永井ふさこと出会う
アララギ派の名だたる歌人で精神科医としても功績を残した斎藤茂吉は、明治15年5月14日、山形県南村山郡金瓶村の農民、守谷熊次郎の三男として生まれている。
霊山として知られた蔵王山の山裾ののびたところに生家はあった。
小学校時代から神童と呼ばれたところは、天才歌人石川啄木と同じである。
その後同郷出身で、そのころ東京で医院を開いて繁盛していた斎藤紀一が神童の名を聞き、茂吉は斎藤家に引き取られ、名門開成中学に入学、勉学に励む。
第一高等学校時代から正岡子規の歌集「竹の里歌」を読み、触発されて短歌を志すようになり、東大医科へ入学した茂吉は勉学の傍ら伊藤左千夫に師事し、作歌の道に励むようになる。(後列左が茂吉、前列左が伊藤左千夫である。)
茂吉は生涯に18冊の歌集を出し、17907首の歌を残した。
万葉調の重厚な歌調で独特の持ち味を作り出し、中でも歌集「赤光」は特に名高い。
母のいくが重病に倒れたとき、茂吉はいち早くかけつけ母を看取るが、その時の歌「死に給う母」59種は不朽の名作として世評が高い。
死に給う 母に添い寝の しんしんと 遠田の蛙 天にきこゆる
のど赤き つばくらめ二つ 梁にいて たらちねの母は 死に給うなり
茂吉のたらちねの母を思い浮かべながら、午後1時20分、斎藤茂吉記念館に到着である。
茂吉は歌人としては大成したが、生活者としては最悪の相性の妻との生活で疲れ果て、悩み多き日々を過ごした。
孤独な茂吉に、やがて美しい女性との宿命的な出会いが待っていた。
スキャンダル事件の翌年9月、正岡子規33回忌歌会が向島百花園で催され、その折に茂吉は若く美しい女性、永井ふさこと声を交わした。
永井ふさこは、明治43年愛媛県松山市に医院の四女として生まれた。
子規とは遠縁に当たる。
ふさこはアララギに入会したてで、歌会への参加は初めてだったが、子規との縁で話が弾んだらしい。
ふさこは写真を見ただけでも、現代にも通用する眉目秀麗な本格的美人、これでは大概の男はまいってしまう。
ときに茂吉52歳、ふさこは24歳で、それから二度ばかり会ううちに、ふさこは茂吉の家庭事情を知り、同情がやがて恋情へと移ろってゆく。
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