岡倉天心 茶の本 第六章  花 その3 西洋での花の運命

 西洋の社会における花の浪費は東洋の宗匠の花の扱い方よりもさらに驚き入ったものである。

 舞踏室や宴会の席を飾るために日々切り取られ、翌日は投げ捨てられる花の数はなかなか莫大なものに違いない。

 いっしょにつないだら一大陸を花輪で飾ることもできよう。

 このような、花の命を全く物とも思わぬことに比ぶれば、花の宗匠の罪は取るに足らないものである。

 彼は少なくとも自然の経済を重んじて、注意深い慮んぱかりをもってその犠牲者を選び、死後はその遺骸に敬意を表する。

 西洋においては、花を飾るのは富を表わす一時的美観の一部、すなわちその場の思いつきであるように思われる。

 これらの花は皆その騒ぎの済んだあとはどこへ行くのであろう。

 しおれた花が無情にも糞土の上に捨てられているのを見るほど、世にも哀れなものはない。


 どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのであろう。

 虫でも刺すことができる。

 最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。

 ボンネットを飾るために羽毛をねらわれている鳥はその追い手から飛び去ることができる、人が上着にしたいとむさぼる毛皮のある獣は、人が近づけば隠れることができる。

 悲しいかな! 翼ある唯一の花と知られているのは蝶であって、他の花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。

 彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。

 われわれは、黙々としてわれらに仕えわれらを愛する人々に対して絶えず残忍であるが、これがために、これらの最もよき友からわれわれが見捨てられる時が来るかもしれない。


 諸君は、野生の花が年々少なくなってゆくのに気はつきませんか。

 それは彼らの中の賢人どもが、人がもっと人情のあるようになるまでこの世から去れと彼らに言ってきかせたのかもしれない。

 たぶん彼らは天へ移住してしまったのであろう。

 草花を作る人のためには大いに肩を持ってやってもよい。

 植木鉢をいじる人は花鋏の人よりもはるかに人情がある。

 彼が水や日光について心配したり、寄生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。

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