越前と若狭の旅 その52 氣比神宮から金崎宮へ

昼食を食べたあと、「三方五湖レインボウライン」を降り、1時間程かけて敦賀まで走り、敦賀の気比神宮に午後2時ころに到着した。

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敦賀の気比というと、高校野球の強豪校である敦賀気比を思い出すが、この神宮は野球の神様を祀っている神社ではない。

氣比神宮は、福井県の中央部に位置する敦賀市市街地の北東部に鎮座する越前国一宮である。

敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝であり、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

「古事記」「日本書紀」では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇・神功皇后・応神天皇との関連が深く、古代史において重要な役割を担っていた。

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ここの境内に、おくのほそ道で詠んだ句を台座に刻んだ芭蕉像が建っている。

句は「月清し 遊行の持てる 砂の上」である。

敦賀気比神宮の参道を遊行が整備したという話を旅籠の主人から聞いて、感銘を受け詠んだ句といわれていて、句の意味だが「清らかな月が出ている。遊行二世上人が砂を運んで整備してくださった参道の上から望むからこそ月がなおさら清らかに見えるのであろう。」というようになる。

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おくのほそ道の旅で、芭蕉は元禄2年旧暦814(現在の9月終わり頃)の夕暮れ、敦賀の港に着き宿をとり、その夜の月に感動し氣比神宮に夜の参拝に出かけ、遊行二世上人が砂を運んで整備してくださった参道の白砂とそれを照らす月の美しさに打たれ、この句が成立した。

気比神宮はさらっと見て、次に金崎宮に向かった。

金崎宮は当地にあった金ヶ崎城址の麓にあり、後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を祭神としている神社である。

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恋愛成就の神様として有名で、若い女性二人が僕の前に神社に入って、たぶん恋愛関係の願い事を一生懸命に祈っていた。

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これから僕は金ケ崎古戦場跡に向かう。

この金崎宮の祭神である恒良親王と尊良親王は、足利尊氏の入京により北陸落ちした新田義貞や氣比神宮の大宮司に奉じられて金ヶ崎城に入ったが、足利勢との戦いにより敗死した。

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この階段を上がると、尊良親王の墓所見込み地である。

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この階段を上がるとかなりな広さの平坦地があり、その中央に記念植樹がされていて、木の横に白い杭が建てられていて、「金崎軍本陣跡地記念植樹」と書かれていた。

ここで尊良親王が自刃して果てたと推定されていて、しばらく居ると気分が悪くなり、古戦場跡地まであと3分で行ける予定だったが、ここで引き返すことにした。

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金崎宮へ引き返す途中で見晴らしのいい場所があり、そこから赤レンガ倉庫を中心に敦賀市内をしばらく眺めていた。

明日の朝はもう新潟へ帰る船に乗船、この「越前と若狭の旅」も次回で終わりである。

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