能登(日本道)への道 その20 渤海までの二つめの話
二つめの話は、5世紀となる。
この時代は倭の五王の時代で、大和政権は強大な力となり、朝鮮半島南部の支配をめぐって優位な立場に立つため、中国の宋に朝貢して安東将軍などの称号を得た。
例の讃、珍、済、興、武の時代で、大阪の堺市には仁徳天皇(讃と比定されている)陵などの巨大な前方後円墳が造られた。
一方朝鮮半島南部では4世紀に百済と新羅がそれぞれの地域を統一、高句麗・百済・新羅の時代となっていた。
5世紀になると、大伽耶が新羅や百済と対抗しながら新興勢力として勢力を伸ばして来た。
この福井県若狭町脇袋地区には、大和朝廷系のものと思われる7つもの古墳があった。
その一つである西塚古墳を大正時代に発掘したところ、大伽耶の耳飾りにそっくりな耳飾りが見つかった。
6世紀、その北陸の豪族達の中から、後に継体天皇となる男大迹王(おおどおう)が出現した。
男大迹王の父は近江の出身で、母は越前の出身である。
越前には当時越王国といわれる独自の勢力があり、この王国の古墳群の中から、大伽耶との関連を示す冠が出土している。
大伽耶の儀礼を取り入れていたことを示す冠である。
男大迹王の一族は、朝鮮半島南部と独自に結びついていたと見られている。
彼らは大和政権とも通じながら、日本海ルートを通じて、朝鮮半島南部から先進的な文化を取り入れていたのである。
新羅とも北陸の豪族達は交流していたようだが、継体天皇の時代からは百済を中心として先進的な文化を朝鮮半島から取り入れていった。
継体天皇の墓とされる今城塚古墳から出土した埴輪には、先進的な文化を積んで日本海ルートや瀬戸内海ルートを航行したであろう帆掛け船が描かれている。
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