能登(日本道)への道 その21 渤海の話Ⅰ

これからは渤海の話となる。


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渤海は、西暦698年から926年まで、今の北朝鮮と中国東北部とロシア沿海州の一部を領土として、228年もの長い間栄えた国である。

日本の時代では飛鳥・奈良・平安時代のことで、その間渤海は34回も日本に使者を送り、その延べ人数は2500人にもなった。


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 これに応えて、日本からも渤海に使者が渡った。

 渤海は中国東北部の現在の黒竜江省の寧安市の郊外に、上京という名の都を持っていて、ここにおよそ160年間に渡って都が置かれていた。

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 都はおよそ4km四方の城壁に囲まれていて、城内には幅110mの大通りが走り、5つの宮殿が建てられていた。


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 ここから日本海を越えて、日本に使いが送られていた。

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 これは上京の都をCGで再現したものだが、上京の繁栄ぶりは中国の文献に海東の盛国とうたわれるほどだった。


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 唯一渤海時代の建物がこの近くの山の上に存在していて、霊光塔と呼ばれる5層の建物で、渤海にとって仏教が国の柱であったことを伝える建物である。

 上京には9つの寺院が立ち並び、仏教を中心とする文化が花開いていた。

 渤海はかって高句麗があった場所に建てられた国で、高句麗の遺民とその北に住んでいた靺鞨(まつかつ)の人々が中心となった多民族国家でもあった。


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 海東の盛国とうたわれた渤海は、日本海を渡って北陸を中心にして日本海各地に使いを到着させたが、渤海使の海上ルートは、朝鮮半島東岸から九州沿岸を進んだ南廻りルート、北方を経由する北廻りルート、直接日本海を渡ったルートの三つがあった。

第1回の渤海使が訪れたのは奈良時代の727年のことである。

この時のルートは北廻りルートで、この年の8月に初の渤海大使高仁義ら24名が蝦夷の地に漂着したが、蝦夷に襲撃されて16名が死亡した。

生き残った高斉徳ら8名は12月に都に到着して聖武天皇と対面し、渤海国王大武芸からの親書とテンの毛皮らを献上した。

親書には軍事的な支援を意味する「結援」という言葉が記されていた。

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渤海が日本と結びたいとする意図は、当時の渤海を取り巻く情勢の変化で、唐と新羅が連合して渤海を脅かし、これに対抗して渤海は突厥と結んで対抗していたが、次第に情勢が悪化し、渤海は日本と「結援」することを考えた。

日本も当時、朝鮮半島を統一した新羅と仲が悪く、この渤海の申し出を受け入れたのである。

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