甲州街道と佐久平みち その18 八幡原史跡(川中島古戦場)にて

距離にして6.5km、時間にして20分もかからない。

午前10時には川中島古戦場に到着した。
川中島と言えば武田信玄と上杉謙信の合戦で有名な場所である。
川中島の戦いは、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。
最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島を中心に行われたことから、その他の場所での戦いも総称として、川中島の戦いと呼ばれている。
これから、「武田・上杉両雄一騎打ちの地八幡原」と書かれている八幡社境内に入っていく。
境内に入るとすぐ、「川中島の戦いゆかりの地周遊マップ」なる掲示板が建てられていて、武田と上杉が千曲川を挟んでいろんな場所で戦ったことが理解できる。
川中島古戦場と銘打って入るが、この八幡社境内の地は武田軍が勝鬨を上げ、討ち取った敵将兵の首実見を行った場所程度の所である。
川中島の戦い第四次合戦(八幡原の戦い)の両軍の布陣が境内に掲げられていた。
永禄4年(1561年)8月15日、上杉政虎は善光寺に着陣し、荷駄隊と兵5000を善光寺に残し、自らは兵13000を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡って長野盆地南部の妻女山に陣取った。
一方武田信玄は、海津城の武田氏家臣高坂昌信から謙信が出陣したという知らせを受け、8月16日に甲府を出発した。
8月24日、信玄は兵2万を率いて長野盆地西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
両軍合わせて3万3千、9月10日未明の霧深い中で、信玄の鶴翼の陣(両翼を前方に張り出し、Vの形を取る陣形)と謙信の車掛かりの陣(大将を中心にその周囲を各部隊が円陣を組み、車輪が回転するように入れ代わり立ち代わり各部隊が攻めては退く陣形)で、川中島八幡原一帯で壮絶な戦いが繰り広げられ、両軍あわせて8千人にもなる戦死者と約2万名弱の負傷者を出す史上まれな激戦となった。
古戦場の様子を掲示した文章を読んでいると、460年も経った今も当時の合戦の様子が浮かんできて、かなり興奮してしまった。
また、境内には風林火山と昆毘沙門の旗を従えて、武田信玄と上杉謙信両雄の一騎打ちの像が建てられていた。
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけた場面である。
「甲陽軍鑑」によれば、白手拭で頭を包み放生月毛に跨がり、名刀小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受けた。
御中間頭の原大隅守(原虎吉)が槍で騎馬武者の馬を刺すと、騎馬武者はその場を立ち去った。後にこの武者が、上杉謙信であると知ったという。
甲斐と越後の英雄の戦いには、数多くのエピソードが付いている。
激戦の後に戦場に散った戦死者を武田方の高坂弾正が敵味方の区別なく埋葬したことや、そのことを知った上杉謙信が感激して、塩が不足していた敵の武田方の甲斐の国へ塩を贈ったことなどである。
甲斐と越後の両英雄は、歴史の中でも人々の中でも好印象である。
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