「播磨と淡路のみち」 その42 慶野松原
鳴門岬をあとにして、距離にして20km程離れた慶野松原に向かった。
午前10時40分頃、慶野松原に到着した。
慶野松原は古くは柿本人麻呂らにより「万葉集」に詠まれた風光明媚で知られた景勝地で、約5万本の淡路黒松が生い茂っていて、約2.5kmに渡って白い砂浜がのびる、瀬戸内海でも随一の白砂青松の地である。
司馬さんによれば、この慶野の古語はケイではなくケヒで、飼飯という漢字があてられていた。
飼飯という普通名詞は、豚類などを飼うことという意味であることはほぼまちがいない。
古代の日本人は猪(ぶた)などを食べるという習慣は無かったので、おそらく朝鮮半島などから渡来人が渡って来てここに住みついて猪を飼っていて、そこから飼飯の松原となり、慶野松原となったのだろうと司馬さんは推測している。
司馬さんの韓国人の友人である金達寿氏は、彼の著書である「日本の中の朝鮮文化」の中で、「飼飯というのが猪などを飼うということであったかどうかは知らないが、いずれにせよ新羅系渡来人集団と関係があったことはまちがいないようである。」と更に範囲を狭めている。
朝鮮民族の成立に影響した域外民族には漢族と満州族がいるが、このうち満州民族の先祖である挹婁人、勿吉人、靺鞨人は寒冷な満州の森林地帯に住んでいたので、猪(ブタ)を盛んに飼育して極寒時には猪(ブタ)の脂肪を体に塗って寒さを防いでいたといわれている。
朝鮮半島(特に韓国)では、ブタは縁起の良い動物とされているので、司馬さんや金達寿氏の推測はほぼ間違いなさそうである。
以前旅したことのある敦賀にも気比の松原という名の白砂清松の地が、そういえばあった。
気比の松原の地名も、きっと飼飯の松原から来たのだろう。
ここには渤海国の使節団が逗留した松原客員があり、渤海は満州民族の先祖たちと共に国を造ったので、気比の松原の地名の起源はあるいは渤海からではないかと個人的に推測しているが、それが確かであるか確かめる気もない。
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