東京散歩 その13 東京大学の核心部を見学 その1
これから東京大学の核心部を見学する。

Aの三四郎池、Bの浜尾新像、Cの安田講堂の順で見学し、赤星印の大講堂下の中央食堂で昼食である。
まず、Aの三四郎池からである。
1615年の大坂夏の陣の後、加賀藩前田家は幕府から現在の東京大学(本郷キャンパスの一部)およびその周辺地を賜った。

1629年4月、前田家3代藩主利常の時に徳川3代将軍家光・大御所秀忠の御成があり、それに先だって豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園を整備したと考えられている。
この庭園が育徳園であり、池はその形から心字池と名付けられた。

その後、夏目漱石が小説「三四郎」を書きここを主要舞台としたため、三四郎池と呼ばれるようになったという。
三四郎はこの池の畔で、小説のヒロインである美禰子を初めて見た。
その後美禰子は三四郎の恋心を知りながら、彼を意図的にもてあそびながら他の男と結婚を決め、三四郎の淡い初恋は終焉する。
司馬遼太郎の「街道をゆく 本郷界隈」のラストシーンはこの三四郎池である。
自身の本郷界隈の旅のラストシーンも小説三四郎にあやかり三四郎池にしようと、司馬は最初から心に決めていた。
「街道をゆく 本郷界隈」のラストシーンで、この池でブラックバスを釣る少年が、僕には小説「三四郎」の主人公に思えた。
三四郎池の次は、Bの浜尾新像である。

銅像は没後7年目の1932年に建立、安田講堂と三四郎池の間の道に面していて、安田講堂を見つめるように置かれており、台座も含めると約4メートルという大きさである。
浜尾新は東京帝国大学の育ての親で、東京帝大の第三代、第八代の総長を務めた人物。
この二回を通算すると東大総長の在任期間は約11年4か月であり、歴代総長の中では山川健次郎総長(第六代、第九代)に続き長い。
いったん文部大臣に任じられたが再び東京帝国大学第八代総長に就任、この時彼は「正門を入ったら万人、自ら襟を正すような雰囲気にしたい」と、小石川植物園長に命じて銀杏を移植させた。

この銀杏並木は彼が作らせた東大の正門とともに、現在の東大のシンボルとしてすっかり有名になった。
また、彼は自分が育ててきた帝国大学の国家社会における指導性に自負と確信を抱いていて、1900年の伊藤内閣に加藤高明が帝大出身として初めて外務大臣に就任した時、「今後20年、内閣員はことごとく帝国大学の出身者で占めることになるだろう」と側近に話したという。

彼はこの頃既に、日本社会における東大の地位を見通していたのである。
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