能登(日本道)への道 その28 「時国家」と「上時国家」を見学

 「塩の駅」から5~6分走って、「時国家」に到着した。

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 この江戸時代には加賀藩に属していた「時国家」と、そのあと訪問する幕府と関りがあった土方家に属していた「上時国家」(後に天領となる)は、平家の最高重鎮で平清盛の義弟であった平大納言時忠の末裔の家である。

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 「時国家」の建物は江戸中期もしくは末期のものといわれ、古い鎌倉時代の書院造り様式を持ち、堅固な造りであるが「上時国家」に比べ質素で、農家の一般的な特徴が多いといわれている。

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 今日は見学を受けつけて無いようで門は閉まっていたが、門の前に安徳天皇社と書かれた石柱が建っていた。
 この「時国家」は安徳天皇を祀っているのである。
 保元・平治の乱を制圧し、政権を獲得した平氏は更に天皇の外戚となって朝廷を支配した。
 その象徴が安徳天皇である。


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 安徳天皇の系図を見ると理解できるが、彼の父方のお祖父ちゃんは院政を意のままに操った後白河上皇で、母方のお祖父ちゃんは日本の知行国の半数を支配下に置いて絶対的な権力者となって栄華を極めた平清盛である。

 その後平家は平清盛の死などにより、1185年に壇ノ浦の合戦で源氏に破れ、平家団結の象徴であった安徳天皇は御歳八歳で二位の尼に抱かれ入水され、平家方生存者の殆どは離散の生活を始めた。
生存者中最高重臣であった平大納言時忠は、源義経との約束により能登の地へ流された。

時忠の子の時国の代より子孫はこの地で農耕を営んで時国村を成立させた。

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 次に「上時国家」に向かった。

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 「上時国家」は、江戸時代以来代々大庄屋を務め名字帯刀を許されていて、現存する建物は江戸末期のものといわれ、豪壮、華麗で、農家建築の様式の中に書院造りの手法を採り入れており、完成までに28年を費やしたといわれている。

 屋敷内に入ったが、見どころの多い各部屋である。

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 この部屋には、平家定紋「丸にあげは蝶」を金箔で描いたふすまが設置されていた。

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 この部屋は御前の間(大納言の間)で、黒漆塗りに金縁の「縁金折上格天井」が大納言格式を示している。
 加賀藩主がご宿泊の折に「余は中納言ゆえこの部屋に入れぬ」と言われて、天井の隅に紙を貼り格式を下げて入室したという。

 そのエピソードから、この部屋は大納言の部屋ともいわれている。

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 部屋だけでなく、庭も風格があり歴史の重さを感じさせるりっぱな造りである。

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 30分ほど「上時国家」を見学し外に出ると、松の葉越しに雄大な能登の平原が広がっていて、そこは日本海へ繋がっていた。

 2家に分かれる前の時国家は、八百石積みから千石積みの大きな北前船を持ち、大坂から日本海を経て北海道の松前まで航海して、巨万な富を得ていたという。

 ここに立つと、往時の時国家の幻影まで見えてきそうである。

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