「播磨と淡路のみち」 その38 洲本城天守台に上がる
これから標高133mの三熊山山頂部に築かれた洲本城本丸に上がっていく。
洲本城の縄張りを示すとこんなである。
東西約800m、南北約600m、広さ約278.5㎡の広大堅固な縄張りである。

ここは⓯の位置にある本丸大石段で、この石段を上がると本丸虎口である。
ここは⓰の位置にある本丸虎口で、敵勢の本丸への直撃を避けるため、屈曲した内枡形を構成している。
本丸虎口を出ると正面が天守台で、その上に天守が築かれている。
現在の天守は1928年に建造したもので、往時の天守を復元したものではないが、模擬天守としては日本最古のものである。
天守台に上がって、そこから眼下に広がる洲本の街を眺めた。
この三熊山の麓に、先ほどまで居た平城跡がある。
ここに立つと、洲本城の歴史が浮かんでくる。
この山城は三好氏の重臣の安宅治興が築城し、治興の後は養子安宅冬康(三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれた。
1581年の淡路討伐の際に総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられたが、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となった。

天守台は強風が吹き荒れ幟旗が大きく翻っているが、引き続き歴史を見ていく。
豊臣政権下で淡路は脇坂の時代となり、この時に山の洲本城の体裁が整ったので、この山城はほぼ脇坂安治の作品である。
豊臣期に阿波一国が蜂須賀氏に与えられ、徳川の世になると家康は大阪の陣で豊臣氏を滅ぼし、戦功のあった蜂須賀氏に淡路一国を加封し、小六の子の蜂須賀家政が淡路に入国して初代国王になった。
初代国王も見たであろう雄大な風景を眼下に見ながら話を続けていく。
蜂須賀氏は保身外交に優れていて、最初豊臣に使えながらその後徳川に使えて家を存続させた。
どうなるかわからない戦乱の世を経験した家政は、徳川幕府が1藩につき1城以外は認めないと命じた時、この山城を樹林に埋もれさせたまま残した。
いざという場合にこの山城に籠るつもりだったのだろうが、いずれにしてもこの山城は隠し城で、そのためほぼ城郭を残したまま今まで残った。
たっぷりと歴史と絶景に浸って、それから洲本城を下った。
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