甲州街道と佐久平みち その28 追分宿
午後から、追分宿まで行った。
佐久平駅近くの食堂から、レンタカーで12km程の距離である。
追分宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場で、今は北佐久郡軽井沢町追分という住所で、北国街道との分岐点であり、追分の名はこれに由来する。
まず、信濃追分駅を見た。
それから、追分宿に向かった。
追分宿は元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。
ここはもう軽井沢町で、いろいろ見どころが多いのだが、黄↓で示した堀辰雄文学記念館だけ見て、あとはサラッと流した。
堀辰雄は大正12年の19歳の夏の時、室生犀星に伴われて初めて軽井沢を訪れた。
初めて追分宿を訪れたのは大正14年のことで、芥川龍之介らとドライブで軽井沢に来た時のことだった。
その後、昭和9年頃から古い宿場の面影を残す静かな追分宿に惹かれて度々訪れるようになり、この地で「風立ちぬ」「かげろうの日記」「姥捨」など数々の作品を執筆した。
昭和19年からは疎開と療養を兼ねてこの地に定住、昭和26年7月には追分宿に家を新築して、亡くなるまでの1年10ケ月ほど療養の日々を送って、昭和28年5月28日にこの地で49歳の生涯を閉じた。
軽井沢には別の機会に来たいと思っていたので、展示室のみを見て、晩年を過ごした住居や愛蔵書が納められた書庫や文学碑などは見ずに、ここを出た。
追分宿と少し歩いてから、旅の最後の宿である「アクアホテル佐久平」に向かった。
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