「播磨と淡路のみち」 その44 高田屋嘉兵衛の生まれ故郷で
「ウェルネスパーク五色 高田屋嘉兵衛公園」の丘陵を上がっていった。
しかし、期待していたものは何もなく、ただの観光地がそこには広がっているだけだった。
播磨灘も遠くに見えるだけだったので、10分もここに居ないで、嘉兵衛が埋葬されている丘陵の麓にある墓まで下った。
高田屋嘉兵衛(1769年2月7日~1827年4月30日)は、江戸時代後期の廻船業者で海商である。
嘉兵衛は淡路国津名郡都志本村(現兵庫県洲本市五色町都志)の百姓弥吉の長男として生まれた。
嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出た。
堺屋は兵庫と因幡や伯耆を結ぶ廻船問屋を営んでおり、既に弟の嘉蔵が奉公に出ていたのである。
その後船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地の箱館(函館)に進出、国後島・択捉島間の航路を開拓し、漁場運営と廻船業で巨額の財を築いた。
以前、函館の高田屋嘉兵衛旧跡を訪ねたことがあるので、ここでその一部を引用する。
この旅では緑十字星印で示した函館グランドホテルに宿泊したが、ホテルの近くには赤字1の高田屋嘉兵衛屋敷跡と赤字2の高田屋嘉兵衛の像が建っていた。
まず、赤字1の高田屋嘉兵衛屋敷跡から見学した。
案内看板が立っていたので、内容を紹介する。
簡単に言えば、高田屋嘉兵衛は函館の基礎築き、その発展に大きな貢献をした人である。
この場所に、2町(約220m)四方の大邸宅があったのだ。
その人と成りも、案内看板に要領よく記されていた。
次に、赤字2の高田屋嘉兵衛の像の前に向かった。
方向は函館山の方向で、函館山を背景に、遠めだが高田屋嘉兵衛像が建っているのが肉眼でもはっきり確認できる。
この風景は高田屋嘉兵衛のようなスケールの大きな男にはピッタリだと感じた。
更に像に近づいていく。
あの司馬遼太郎の「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛が目前に迫ってくる。
朝飯抜きで体調不良なのに、心が小躍りしてくる。
そして、嘉兵衛像直下に到着したが、少々がっかりした。
高田屋嘉兵衛像は、函館山を背景とした遠目の方が、ずっと男前に見えた。
この像だが、 1813)年にロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロウニン船長を引き取るため函館に入港した際に、嘉兵衛が立ち会った時の姿を模して造られた。
右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋姿、麻裏草履を用い、帯刀している。
函館を旅した時の紹介はこれで終えるが、嘉兵衛の生まれ故郷の旅で印象に残るものは何も見なかった。
それで、墓だけにはとりあえず参拝することにしたのである。
一番奥の立派な墓が、高田屋嘉兵衛の墓である。
墓の前に寄り、手を合わせて合掌した。
墓の辺りから播磨灘が良く見えるかなと期待したが、そんなこともなく、播磨灘は家並みの向こうにカスレて、僅かに見えるのみだった。
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