松前街道をゆく(2014年の旅) その9 蝦夷共和国のこと

12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は箱館政権を樹立、この政権は蝦夷共和国と俗称された。

しかし榎本らは「蝦夷共和国」と名乗ったことはなく、また独立主権国家たると宣言したわけでもない。

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 総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。

この総裁選はアメリカなどの政治制度を模範に日本で初めて行われた選挙で、投票の参加者は旧幕府脱走軍の指揮役(士官)クラス以上だった。

総数856票の内訳は、以下の通りとなった。

榎本釜次郎(武揚) 156票

松平太郎       120票

永井玄蕃       116票

大鳥圭介        86票

松岡四郎次郎     82票

土方歳三         73票

以下省略

この結果を参考にして、主要ポストは以下のように決定された。


総裁         榎本武揚

副総裁        松平太郎

海軍奉行       荒井郁之助

陸軍奉行       大鳥圭介

陸海裁判官     竹中重固、今井信郎

陸軍奉行並     土方歳三

箱館奉行       永井尚志

松前奉行       人見勝太郎

江差奉行       松岡四郎次郎、 小杉雅之進

開拓奉行       澤太郎左衛門

会計奉行       榎本道章、川村録四郎

以下省略


蝦夷共和国は政権としての体裁は整ったが財政事情は悪化、前もって用意していた軍資金も乏しくなった。

資金調達を担当していた会計奉行の榎本道章と副総裁の松平太郎は、貨幣を偽造してばら撒き、「脱走金」の悪名を流すことになった。

更に、縁日の出店を回って場所代を取り立てたり、賭博場を黙認する代わりに寺銭を巻き上げたり、はては売春婦から税を取ったり、箱館湾から大森浜まで柵を廻らして一本木に関門を設け、そこを通る女子供にまで通行税を出させるなどといった事を行い、住民の反感を買った。

いよいよ財政的に行き詰まった旧幕府軍首脳は、箱館の豪商から金品を徴収しようとしたが、これは土方歳三が強硬に反対して取り止めになった。

住民からは旧幕府軍に対する反感が増し、新政府側のゲリラ組織「遊軍隊」に参加したり、新政府軍に内通する者も出てくる有様だった。

そして新政府軍と蝦夷共和国政権との最後の戦いが始まる。

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 海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が186946日に青森を出発、49日早朝、乙部に上陸した。

乙部に上陸した新政府軍は三方から兵を進めて函館へ進行し、4月末には箱館を除く各地を制圧した。

そして、箱館総攻撃である。

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 511日、新政府軍は箱館総攻撃を開始、海陸両方から箱館に迫った。

陸軍参謀・黒田清隆率いる新政府軍700名は夜陰に紛れて箱館山の裏側に上陸、絶壁をよじ登って箱館山の山頂に到達、夜明けまでには箱館山を占領した。

新政府軍の奇襲上陸に対し、箱館奉行・永井尚志は弁天台場に入り守備を固めた。

しかし、山頂からの攻撃は圧倒的で、大森浜沖の陽春からの艦砲射撃もあって、蝦夷共和国政権は一本木関門付近まで退きさらに五稜郭まで後退、箱館市街は新政府軍に制圧された。


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これに対して、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死。

さらに副総裁・松平太郎が箱館奪還を試みるが失敗した。

弁天台場は5月15日、永井尚志以下240名が降伏。

千代ヶ岱陣屋の中島三郎助は5月16日2人の息子とともに戦死、これが箱館戦争最後の戦闘となった。

5月17日朝、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部は、亀田の会見場に出頭、陸軍参謀・黒田清隆、海軍参謀・増田虎之助らと会見し、幹部の服罪と引き換えに兵士たちの寛典を嘆願した。

しかし、黒田は幹部のみに責任を負わせると榎本を始めとする有能な人材の助命が困難になると考えて認めず、無条件降伏となった。

1869年5月18日早朝、榎本ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭し、昼には五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了。

ここに箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。

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