最上川と「おくのほそ道」の旅 その25 東光の酒蔵で鷹山にふれる

米沢織物歴史資料館を出て東光の酒蔵(さかぐら)に向かった。


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東光の名で知られる小嶋総本店は、1597年創業の米沢藩上杉家御用酒屋であり、江戸時代頻繁に禁酒令が出された中でも、酒造りを許されていた数少ない造り酒屋のひとつ。(当時米は貴重品であり、飢饉のたびに禁酒令が出された。)

東光の酒蔵は、昭和594月に古い酒蔵を原形を保ちながら復元したもので、1,200坪の敷地に500坪の建物を有している。


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中でも東北一の広さといわれる1140坪の大きな土蔵には昔ながらの造り酒屋の様子と酒造りの道具などを展示している。

なお、上杉鷹山公展が開かれていたので、ここで鷹山についてふれたい。


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鷹山は175199日、日向高鍋藩主秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれた。

1760年に米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって桜田の米沢藩邸に移った。

1763年より尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ17歳で元服、その後治憲と改名し1767年に上杉の家督を継いだ。

この頃の上杉は実力が30万石程の藩で、その藩が会津120万石時代の家臣団6,000人をそのままかかえていたので、他藩と比較にならないほど人件費が掛かり、藩財政は深刻化していた。

鷹山の頃には、借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していたと言われている。


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新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

それまでの藩主時代1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行った。

天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。

また曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた。

1773年改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴、七家騒動が勃発したがこれを退けた。

これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。


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勇敢な態度で藩財政の立て直しに臨んだ鷹山には、師である細井平洲の言葉がいつも胸の中にあったのだろう。

米沢藩主になろうとしていた上杉鷹山に、細井平洲が送った言葉が、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」である。

「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味である。

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