日本最長10河川の旅で出会った「日本を代表する人物」その5 利根川 NO2 朔太郎の妹「アイ」と初恋の女「馬場ナカ」
アイは朔太郎の美人4姉妹の末の妹であるが、アイで思い出すのが三好達治である。
以前三国湊を旅した際に、世に名高い遊郭地帯で料亭を営んでいた「たかだや」跡を通ったことがある。
「たかだや」は昭和を代表する詩人三好達治が、1944年から1949年までの5年間この三国に疎開し、戦争後頻繁に通って三國湊の風情に親しんだ料亭である。
三好達治は三國湊にいる間に、詩集花筐、故郷の花、日光月光集などを発表、ここを去ったあとも、三国を心のふるさとと語り懐かしんだと伝えられている。
僕が三好達治で覚えている話はそういう教科書的な話ではなく、彼が萩原朔太郎の美人4姉妹の末の妹のアイを大好きになり、結婚を申し込んだものの断られ、それでもあきらめきれずに妻を離縁してついにアイと結婚したというもの。

アイは写真のとおり美人だが性格の悪い女で、三好との結婚までに3回の結婚と離別を経験していた。
結婚してから何年も後に、三好達治はアイを福井の田舎の一軒家に拉致して乱暴し、そのまま監禁してどこへも出さなかったという話が残っている。
この話は萩原朔太郎の娘の葉子が書いた「天上の花」という小説の中に出てくる話で、三好は実際はそういう人間では無く、この話はあくまでも小説の世界だけのものであるとのことである。
そして馬場ナカである。
朔太郎は学問の世界では見るべき実績もなく、学歴という後ろ盾のない結果となったが、文学者としての彼はそう明るくもなかったと思われる学生生活の中で、しっかりとその基礎を固めていた。
彼は短歌の世界から文学に入り、後に高名な詩人として、前橋を代表する文化人として後世の人々に賞賛される人物となるのだが、その萌芽は中学時代にあったようである。
短歌の世界や日曜学校の世界も、彼は垣間見た。
日本の文化と西洋の宗教文化を感受性の高い若い魂が経験し、その延長線上に、彼の初恋の人とされる馬場ナカとの出会いがあった。
この写真だが、左が妹ワカ、右が馬場ナカである。
中学4年の頃、彼は同じく日曜学校に通っていた、一番上の妹「ワカ」の友人である馬場ナカに恋をする。
馬場ナカは洗礼名をエレナといい、クラス写真を見たかぎりでは、一際眼を惹く飛び切りの美人のようである。
前列一番左が馬場ナカである。
前橋を出た後も、朔太郎はナカを思い続けた。
朔太郎が東京の生活を切り上げ、前橋に帰って来たのは28歳の時、本腰を入れて文学に打ち込むつもりの帰郷だった。
そのころ、近くに住む妹ユキ宛に鎌倉七里が浜で療養生活を送る初恋の相手であるナカから絵葉書が届いた。
そこにはこう書かれていた。
「ばあやと二人きりで淋しうございます」。
これを目にした策太郎は、若い日の恋を甦らせ、一冊の歌集を編むことを思いたつ。
それが、「空色の花」という歌文集である。
歌文集の冒頭の序を飾る詩が、下の「空いろの花」という詩である。
空いろの花
かはたれどきの薄らあかりと
空いろの花のわれの想ひを
たれ一人知るひともありやなしや
廃園の石垣にもたれて
わればかりものを思へば
まだ春あさき草のあはひに
蛇いちごの実の赤く
かくばかり嘆き光る哀しさ
結局、この恋は結ばれることなく、初恋という世界の中に、永遠に葬られることになる。
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