木曽川への旅(2008年の旅) その8 藪原宿の散策(子規達の世界)

東西文化の十字路となった藪原で、もう少し子規達の世界に浸る。

子規は、慶応3年(1867年)9月に伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩氏・正岡常尚・八重の長男として生まれた。母八重は藩の儒学者大原観山の長女。

彼は、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公の一人でもある。

小学校時代に竹馬の友・秋山真之と出会う。


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松山中学在学中に自由民権運動の影響を受けて政治家を志すが、好奇心と探究心が旺盛な子規にとって松山という田舎では満足できず、1883年(明治16年)に松山中学を中退して上京する。

一緒に上京した秋山真之と共に東京大学予備門を目指し勉強開始。

合格のため公立学校で英語を習うが、そこで高橋是清(第20代内閣総理大臣)に教えを受ける。

子規は相変わらず英語は苦手で、それでも運良く大学予備門に受かり、そこで生涯の友となった夏目漱石(ほとんどの科目で首席、英語が特に優れていた)と知り合う。


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快適な書生生活であったが、とつぜん竹馬の友の秋山真之が一人大学予備門を退学し、海軍の道へと進んで行く。

子規は1889年(明治22年)5月に喀血してから、「子規」(ホトトギスの異名)と自らを号する。

療養のため一時松山に帰省するが、ちょうど海軍が築地から瀬戸内の江田島に移り、子規は竹馬の友の秋山真之と再会。

太政大臣になることを目指し上京した子規だったが、結核療養や落第を繰り返し、1892年(明治25年)には東京帝国大学を退学、俳句の道に方向転換、俳句革新を志すことになる。


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子規を普通人のように紹介すると以下のようになる。

好きなもの       野球、旅、写生画

(野球については、喀血が始まった20歳頃までは野球に熱中する選手として活躍、ポジションは捕手。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(ノボール)」というペンネームを用いたこともある。

野球という表記を最初に使い、バッター、ランナー、フォアボール、ストレート、フライボールなどの外来語を、打者、走者、四球、直球、飛球と日本語に訳したのも子規である。)

好きな食べ物      スイカ、カボチャ、柿

苦手なもの       英語、右手で字を書くこと

敬愛する人       岡羯南(くが・かつなん) 日本新聞社長、子規の育ての親


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(岡羯南は先取と反権力の青森ジャーナリズムの源流となった人物で、東北地方の歴史の不遇を踏まえて、英国とスコットランドを引き合いに、東北は東北人たることを誇り、日本のスコットランドたれ、と呼びかけた。)

親友          夏目漱石

(夏目漱石は学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。大学予備門時代に、多大な文学的・人間的影響を受けた子規と出会う。夏目のペンネームである「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つで、この名を子規から譲り受けた。)

 愛読書         源氏物語、フランクリン自叙伝

普通人として紹介したが、「敬愛する人」や「親友」を見るだけでも、子規は明治という時代が生んだ図抜けた人物だった。

子規のことを書くと明治という時代が思い浮かび、同時に子規好きで小説「坂の上の雲」を書いた司馬遼太郎を思い浮かべる。

道を転じた世界で、短歌においては、『歌よみに与ふる書』を日本新聞に連載。

古今集を否定し万葉集を高く評価して、江戸時代までの形式にとらわれた和歌を非難しつつ、短歌の革新につとめた。

門人の伊藤左千夫、長塚節、岡麓等が短歌結社「根岸短歌会」として継承し、後のアララギ派へと発展した。

短歌での彼の代表作だが、次のような句がある。

 くれないの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨のふる

 松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く

 いちはつの 花咲きいでて 我が目には 今年ばかりの 春行かんとす

俳句においては、いわゆる月並俳句の陳腐を否定し、芭蕉の詩情を高く評価する一方、江戸期の文献を漁って、蕪村のような忘れられていた俳人を発掘した。

また、ヨーロッパにおける十九世紀自然主義の影響を受けて、写生・写実による現実密着型の生活詠を主張、俳句における新たな詩情を開拓した。

俳句での彼の代表作だが、こんな句がある。

 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

春や今 十五萬石の 城下哉

 おとといの へちまの水も 取らざりき

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