木曽川への旅(2008年の旅) その9 アララギ派の重鎮「伊藤左千夫と野菊の墓」

この子規の弟子が伊藤左千夫。彼は「歌よみに与ふる書」に感化され、正岡子規に師事し、子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。
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伊藤左千夫は歌人であり、代表作「野菊の墓」で有名な小説家でもある。

本名は幸次郎、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身で、明治法律学校(現明治大学)中退、子規より3つ年上である。

この伊藤左千夫を中心として、アララギ派の重鎮たちが滞在した藪原、ここは文化においても一流の場所である。

野菊の墓といえば、語呂合わせのように連想するのが「ああ野麦峠」、まったく別の場所のまったく別のストーリーなのだが、明治という時代の悲しみがいっぱい詰まっているようなこの二つの話は、幸薄い少女たちの生きていく吐息が聞こえるようで、つい並べて考えてしまう。

この二つの物語を脳裏で反すうしながら、藪原宿を歩いた。

小説「野菊の墓」は場所を千葉県・矢切村(現在の松戸市下矢切)とされているが、その内容は、左千夫の郷里、千葉県成東町における、少年時代の体験を基にした自叙伝小説といわれる。

筋は「矢切の渡し」付近が舞台で、政夫(15歳)と彼の家に手伝いに来ている従姉の民子(17歳)が主人公である。


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やがて、周囲の人たちの無理解から、結婚を余儀なくされた民子、その民子から離される政夫の、それぞれの悲劇が詩情豊かに描かれた「恋愛小説」である。

明治39年(1906年)、左千夫42歳にして初めての小説であり、今なお読み継がれ、読者の感動を呼ぶのは、一言で言って、純粋さの勝利だという。

発表後好評で迎えられ、「夏目漱石」にも賞賛された。

以下は、野菊の墓の書き出し部文である。



『後の月という時分が来ると、どうも思わずには居られない。幼い訳とは思うが何分にも忘れることが出来ない。もはや十年余も過去った昔のことであるから、細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、心持ちだけは今なお昨今のごとく、その時の事を考えていると、全く当時の心持ちに立ち返って、涙がとめどなく湧くのである。

悲しくもあり楽しくもありというような状態で、忘れようと思うこともないわけではないが、むしろ繰り返し繰り返し考えては、夢幻的の興味を貪って居ることが多い。そんな訣から一寸物に書いて置こうかという気になった。

僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、小高い丘の上でやはり矢切村と云っている所。


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伊藤左千夫生家



矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れが二三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤と云ったのだと祖父から聞いて居る。

屋敷の西側に一丈五六尺も廻るような椎の樹が四五本重なり合って立って居る。村一番の忌森で村じゅうから羨ましがられて居る。昔から何度暴風が吹いても、この椎森のために、僕の家ばかりは屋根を剥がれたことはただの一度もないとのことだ。

家なども随分と古い、柱が残らず椎の木だ。それがまた煤やら垢やらで何の木か見分けがつかぬ位、奥の間の最も煙の遠いとこでも、天井板がまるで油炭で塗った様に、板の木目も判らぬほど黒い。

それでも建ちは割合に高くて、簡単な欄間もあり、銅の釘隠なども打ってある。その釘隠が馬鹿に大きい雁であった。勿論一寸見たのでは木か金かも知れないほど古びている。』

場面が眼の前に浮かぶようなリズムのいい名文なので、つい長い引用となった。

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