松前街道をゆく(2014年の旅) その17 龍馬記念館と高田屋嘉兵衛資料館を見学
午前中の見学場所にあらかじめ番号をふっておいたので、ここで紹介する。
① 高田屋嘉兵衛屋敷跡と② 高田屋嘉兵衛像については既に歩いたので省略、③から紹介する。
③ 龍馬記念館、④ 高田屋嘉兵衛資料館、⑤ 赤レンガ倉庫群、⑥ 七財橋、⑦ 北海道第一歩の地碑、⑧ 新島襄海外渡航の碑、⑨ 新島橋、⑩ 弥生小学校というコースを組んだ。
ぶらぶら歩きながら、昼頃には午前コースのゴールである弥生町の弥生小学校に到着するだろう。
地図の黄矢印の⑩が、ゴールの弥生小学校である。
弥生小学校は石川啄木が憧れの女(ひと)である橘智恵子教諭と一緒に働いていた思い出の小学校、僕も明治40年の頃の弥生尋常小学校での二人に想いを馳せながら、午前中のコースを歩こうと決めた。
それでは、③ 龍馬記念館からである。
坂本龍馬が北海道と関係があるとは全く知らなかったので、展示資料やパンフの説明を読んでみた。
それによると、龍馬自身は北海道の地に足を踏み入れることはなかったが、彼は榎本武揚と同じように、新政府の成立により職を失う多くの幕臣や過激浪士達のために、そのエネルギーを蝦夷地の開拓と防衛に向かわせようと計画を立てていた。
その志の半ばで生涯を閉じることになったが、その志は坂本家の子孫に受け継がれ、坂本直寛が一族を率いて北海道に渡り、北海道開拓に大きな足跡を残した。
更に九代目の坂本登氏によって、北海道に寄せた龍馬の夢が北海道坂本龍馬記念館として結実した。
幕末の大変な時代に、坂本龍馬も榎本武揚も新政府も、同じことを考えたのだと思った。
次に、④ 高田屋嘉兵衛資料館まで歩いた。
ここへ行く途中にもいろいろと面白いものや函館らしい風景があったが、計画以外の見学は全て切り捨てた。(いちいち見ていると、函館だけで旅の日程が終わってしまう、それほどこの街は見所の多い街である。)
高田屋嘉兵衛資料館には、私財すべてを投じて箱館の基盤整備事業を実施し、造船所を建設した嘉兵衛の生涯を通じた関連資料が展示されている。
資料館は高田屋造船所の跡地とされている場所で、かつて海産商のコンブ倉庫として利用されていた。
1903年に建造された1号館と1923年築の2号館の2棟からなっており、箱館(現在の函館)-大坂(現在の大阪)を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に、約500点が展示されている。
さっそく引率の先生に連れられた7〜8名程の小学生とともに館内に入った。
1号館には、高田屋の半纏(はんてん)や、1799年当時の函館を描いた巨大な絵図、コンブを採取する道具などが並んでいた。
2号館には、タンスや金庫、火鉢といった日用品の展示とともに、日本で最初に作られたストーブの復元品も展示されていた。
また、小学生向けに書かれた高田屋嘉兵衛の伝記が黄四角の中に展示されていたので、10分ほどかけで最後まで読んだ。
嘉兵衛の人物と人生が再度確かめられた。
高田屋は、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられ、闕所(財産没収刑)および所払いの処分となり、高田屋は没落した。
その後子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど高田屋は明治時代に昆布業界で活躍した。
記念館の外に出ると、造船所跡地という標識が郵便ポストの横になにげなく建っていた。
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