木曽川への旅(2008年) その17 馬籠妻籠間を馬籠峠まで歩く
水車塚の付近から石畳の山道となり、馬籠峠を目指して急坂を登って行く。

景色は良いのだが道の勾配がキツく、ゆっくりと登っていくしかない。
ひたすら我慢して登っていくと、道の左側に小屋が建っていて、その手前に二等辺三角形の碑が立っていた。
十返舎一九の碑である。
この碑には、「渋皮の剥(む)けし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」という十返舎一九の狂歌が刻まれている。

このあたりは古くから栗こわめしを名物にしていた所だという。
この狂歌は、江戸時代の大ベストセラーである東海道中膝栗毛の続編として書かれた「木曽街道膝栗毛」の中に書かれたもの。
東海道を歩きお伊勢参りをした弥次さん喜太さんの二人は帰路として中仙道を選ぶが、この「木曽街道膝栗毛」には馬籠宿のひとつ手前の落合宿から贄川宿まで歩く二人の様子が、面白おかしく書かれている。(馬籠~妻籠間も書かれているというが、読んでみたい。)
十返舎一九が中仙道を旅し「木曽街道膝栗毛」を書いたのは文化8年8(1811年)のこと。
彼自身は著書のイメージとは正反対の、徹底してメモをとる超真面目人間だったという。
十返舎一九の碑に別れを告げ、彼や弥次さん喜太さんの二人が歩いた道を再び登って行く。
あたりに人影は全くなく、馬籠の歩き始めからここまで一人の人間とも出会わなかった。
熊の出現はこのあたりは無さそうだが、やっぱり不安になり、こんな急坂なのにどうしても急ぎ足になる。
そんな歩き方をしているうちに、馬籠峠集落がようやく見えて来た。
馬籠宿と妻籠宿の間には険しい馬籠峠があり、民間の輸送機関である牛方・馬方を生業とする峠集落が形成されていた。
この景観重要建造物として指定されている今井家は、牛方と呼ばれる民間輸送機関の組頭を務め、島崎藤村の「夜明け前」にも登場した。
牛方組頭としての規模と格式を備えた貴重な建築遺構で、正面両端には牛繋ぎ石が据えられ、住宅土台にも馬繋ぎの環金具が取り付けられている。
同じ集落の国の登録有形文化財として指定されていた大丸屋大脇家住宅主屋は、峠集落の馬方の旅籠だった。
僕の旅した時は現存していたが、2013年11月29日に全焼し消失した。
峠集落の文化遺産群の中を歩いている間に、やっと人影が見えて来た。

この二人に追いつき話しかけてみたが、二人は70代前半と推測される年代のご夫婦。
二人ともこの道を妻籠から歩いたことがあるとのことで、前歩いた時と全く違って急坂の登りなので、休み休み歩いていると話されていた。

馬籠峠はもうすぐそこと二人から聞いて僕は元気を取り戻し、一段とギアアップした歩き方で、再びバス道路と重なる道を、馬籠峠に向かって歩いて行った。
この記事へのコメント