最上川と「おくのほそ道」の旅 その30 直江石堤への旅

 2009916()の米沢の旅も、今回が最終回である。

最終回は原方衆の子孫の家に残るウコギ垣を見てからの直江石堤への旅である。

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上図の位置が直江石堤の場所だが、その前に茶斜線で記された原方衆の住んでいた町の家々のウコギ垣を見学した。

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この写真の町は横堀町か石垣町だと思うが、どこかは定かではない。

原方衆とは上杉の下級家臣の足軽のことで、米沢城下には上・中級家臣しか収容できず、足軽達は郊外に住宅を構え、そこで田畑を耕して半士半農の生活を送り、家にはウコギ垣を作って貧しい食生活の足しにした。

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足軽さん達の住んでいた土地をすり抜けて、彼らの労働力で造られた直江石堤に向かって車を進めた。

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そして直江石堤を中心に公園となっている直江堤公園に午後2時20分頃到着した。

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直江石堤を築いた最上川上流松川の風景は雄大である。

ただこの川は暴れ川でありたびたび洪水を起こし、直江兼続は米沢に移封後、松川の水害を防止するため、総延長10kmにおよぶ堤防を築いた。

これが通称直江石堤で、谷地河原堤防とも言われている堤防である。

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この直江石堤と書かれた石碑の後ろに、現存する約1.2kmに渡って連なっている石堤が見えている。



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近くに寄って見ると、その迫力はただ物でない雰囲気である。

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この上を歩いてみたが、堤防の高さは約4m、幅は約9mもある。

堤防は向こうの山まで永遠に続いているように見え、この堤防工事を指揮した直江兼続の偉大さと、多大な労力を提供した原方衆のご苦労を思った。

次回からはしばらくの間、松尾芭蕉が旅した「おくのほそ道」の旅の山形県部分の、まだ記載していない部分を旅することにする。

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