近江街道をゆく その39 迷いながらも、紫香楽宮跡を訪ねる
旅も8日目となった。

今日はレンタカーで、伊賀・信楽・甲賀を巡り、古代朝鮮との交流の跡である鬼室集斯の墓や安土城跡など、「司馬遼太郎の街道をゆく」の名場面を訪ねながら旅する予定だった。
かなりなハードワークを予想して、ホテルで朝食を済ますと午前7時半頃にはホテルを出た。
しかし、最初目指した信楽方面へは高速道を使わないで一般道にしたため、峠越えばかりとなってしまい、やっとの思いで紫香楽宮に到着した頃には、出発から2時間も経っていた。

今日の予定は半分も消化できないなと思いながら、まず紫香楽宮跡を、それから甲賀流忍者屋敷を訪れた。

宮まで案内が見当たらなかったので、ほとんど勘に頼りながら知らない町を進んだ。

やっとこの看板に出会ったときにはほっとした。
どうやら無事、歴史の小道にたどり着いたようで、ここから目指す紫香楽宮はすぐである。

こんな並木道を、はやる心を抑えて進んでいく。

そして、紫香楽宮まで0.1kmの看板を発見、あと100mで目的地到達である。
目的地には紫香楽宮と書かれた鳥居と神社らしきものが建っていた。
仏教に深く帰依し、鎮護国家を目指して奈良の大仏を建立し、国分寺・国分尼寺を全国に配置した聖武天皇を偲んで、この紫香楽宮跡でしばらく合掌した。
しかし、何かがおかしい、何か釈然としないものが残っていたが、そこにあった説明看板でようやく納得した。

この紫香楽宮跡とされる場所は、1926年に約33000平方メートルが宮跡として指定されたが、その後の発掘調査の進展により、当遺跡の北2キロメートルにある甲賀市信楽町宮町の宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになり、黄瀬・牧にあるこの遺跡は東大寺に先駆けて紫香楽宮で大仏建立を行った甲賀寺の跡、または近江国分寺の跡である可能性が高くなったという。
ただ、宮の跡かそれともお寺の跡かは今でも論争中とのことで、宮の跡であると信じて記念撮影し、ここをあとにした。
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