東京散歩Ⅱ その42 神田明神にて
湯島聖堂を見終え、神田明神に向かった。
神田明神の正式名称は神田神社で、東京の中心の神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、築地魚市場の108町会の総氏神様である。
この、神田明神鳥居をくぐり抜けて神社内に入っていく。
神社社伝によると、730年に出雲氏族で大己貴命の子孫・真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されている。
その後、平将門を葬った墳墓(将門塚)周辺で天変地異が頻発し、それが将門の御神威として人々を恐れさせたため、神田神社に神として合祀され、戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬された。
境内を歩いてこの派手な隨神門の前まで来た。
門は昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建されたもので、総檜・入母屋造で二層建て・屋根は銅板瓦棒葺である。
1600年に関ヶ原の戦いが起こると、徳川家康が合戦に臨み戦勝の祈祷を行なったところ、9月15日の神田祭の日に見事に勝利し、これ以降大切に扱われた。
江戸時代には幕府尊崇神社となって、1616年に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されて、江戸総鎮守として幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬を受けるようになった。
この神田明神本殿で、財布の中の小銭を賽銭箱に入れて拝礼した。
この境内には面白いものが置いてあるが、このさざれ石もその一つである。
さざれ石はもともと小さな石の意味(国歌のさざれ石はこの意味)であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したこのような石も指す。
また境内には、銭形平次の碑なるものも設置されており、子分のがらっ八の小さな碑も右隣に建てられていた。
銭形平次は、野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公である。
平次の住居は神田明神下の「元の台所町」ということになっていて、明神下を見下ろすこの地に建立された。
すぐ近くにある、この明神下男坂を下って行くと、そこは野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の世界となるのである。
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